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2008-08-30

万葉集

万葉集を読んでいる。

岩波文庫にある佐々木信綱編の上下2冊である。Fusafujiutsugi20080827bb

読み始めたが、最初は中々とっつきにくかった。

他に何か読みやすい万葉集はないかと色々とあたってみた。

例えば講談社文庫の中西進編の万葉集4巻とか、集英社文庫の伊藤博編の全10巻とかである。

毎日気分に応じて交互に読み進めた。

でも結局、最後にいつも枕元にあるのは岩波の2冊なのである。

4500首という膨大な数の歌を上下2巻の読みやすい形の中にまとめ上げた佐々木信綱さんの努力。

それに対していつの間にかありがたいと感謝している自分があった。

何故だろう。

何故わたしは佐々木さんの2冊に引きつけられるのだろう?

考えてみると色々な理由がある。

1番の理由は、たった2冊だから、わたしでも最後まで読破できるだろうという<希望>を与えてくれるからである。

他の万葉集は4冊と10冊である。

佐々木さんのものはその半分あるいは5分の1である。

旅に出る時などは、2冊をさっとカバンに入れる。

これで万葉集がまるごと旅の道連れになる。

これは大変ありがたい。Higanbana20080830aa

もう一つの理由は中西さんの文字のサイズが比較的、小さくて読みづらいのである。

わたしは寝る前にベッドの中で読む事が多い。

そうするとどうしても佐々木さんの方に手が伸びてしまうのである。

では伊藤さんの10巻はどうなのだろう。

これは初めから終わりまで、1つの読み物として通読できるような形になっている。

歌とその解説が連続しているのである。

それぞれの歌の歴史的な背景や、歌の解釈。

それに歌の作者に関する説明等が続く。

初めのうちは喜んで読んでいた。

しかしそうこうするうちに、これが少しうっとうしくなる。

というのは今度はその説明の部分に分からないところが出てきて、気がつくと、肝心の歌という焦点がぼやけてしまうのである。

やはり歌そのものに光があたっている方が良い。

佐々木さんは、読者が歌から歌へ自分の想像力を駆使して読んでいくのを期待していたのである。

最小限の注釈は歌の下の部分にある。

それで十分だと考えたのである。

もともと万葉集は大部である。

そのすべての歌を全部理解する事は至難である。

むしろ、より重要な事は読者が自分の想像力を頼りに、夫々の歌のこころの中に入っていく。

全部の歌を理解する必要はない。

自分の触覚に感じる歌があれば、それを何回も繰り返し味わう。

それが大切なのだと考えたのだろう。

だから気軽に携帯できるように2冊に収めようと努力したのに違いない。

上記の3種類の万葉集には各々にその特徴がある。

だから読者によって、これを好む人、あれを好む人と色々あるだろうと思う。

冊数が少なく大き目の文字が好きな人は佐々木さん。

原文、全訳、注釈つきのものが好みの人は中西さん。

万葉集を詳しい説明と一緒に読み物として読みたい人は伊藤さんという事になる。

わたしはまだ万葉集を読み始めたばかりである。

しかしそれでも万葉集は以外に分かり易いと思う。

それは例えば芭蕉の俳句などと比べてみればすぐに分かる事である。

芭蕉の俳句はパッと読んで分かるものは以外に少ない。

古い万葉の歌の方が、新しい芭蕉の俳句より、現代人にとって分かりやすい。

それがどこから来るのかは良く分からない。Teppouyuri20080827aa

わたしが直感的に言える事は万葉集は未だ大陸の影響が少ない8世紀に成立したもので、日本本来のこころが未だその中に残っているのではないかという事である。

朝鮮や中国の影響、それに仏教や儒教がまだ深く浸透していない時代の歌なのである。

万葉集は、いわば1万年ほど続いた<縄文>を引きずっているのではないか。

だから同じ日本人のDNAを持つわたしのこころに素直に響いてくるのではないか。

そう思うのである。

例えば次の歌。

<東(ひむがし)の
野にかきろいの立つ見えて
かえりみすれば
月西渡(つきかたぶ)きぬ>
(万葉集48)

(東の方を見ると
日の出の太陽が
いま昇ろうとしている。
広い野原のうしろを
ふり返ると西の空には
月が山の上にかかり
沈もうとしているところである)。

日本のどこにでもある風景が平易な言葉で詠まれている。

何処からともなく、次のような歌が浮かんでくる。

<菜の花や
  月は東に
   日は西に
       (蕪村)>

この場合は夕方である。

1面の菜の花畑である。

日が西に落ちて、東からは

今や月が昇ろうとしている。

念の為。

太陽も月も

東から昇り

西に落ちていく。

2008-08-23

ミニ菜園の世界

近頃、おもしろい本を読んだ。

<ちゃんと育つよ。ベランダ・ミニ菜園 >(たなかやすこ著、集英社)という本である。Nasubi80823aa

何がおもしろかったかって?

それはおいおい説明する事にしよう。

まず野菜菜園を初めてやろうとする人は図書館とか本屋さんでそれに関する本を探して読むだろう。

わたしも同じである。

市立図書館で色々な本を借りて読んだ。

でも<初めての野菜作り>等々のタイトルの本はどれも似たりよったりで、最初に<土作り>とか<肥料>とかの基本の説明があり、あとはキュウリとかトマトなどの個別の野菜の作り方の説明が続いている。

だから味もそっけもなく、読んでいておもしろ味に欠けるのである。

それらの本の著者達はそれが客観性を重視した書き方だと考えてそうしているのであろう。

ノウハウ本とはそういうモノだと言えばそれまでである。

しかしわたしはそうは思わない。

どんなノウハウの本も、専門書も所詮は人間が書いたもの。

本当のノウハウ本には、人を引きつけるおもしろさがある。

それと同時に最後には、一人の生身の人間のひそかな息遣(いきづか)いが紙面から伝わってくるものなのである。

わたしが心の奥で求めているもの。Shuumeigiku80823gg

それは野菜園芸の<基本哲学(エトス)>なのかもしれない。

人間が一つの分野に分け入り、集中し、それを持続的にやるには、その世界に入る為の基本姿勢というものを身につけなくてはならない。

例えば、商売人になろうとする人は商品の原価と売価、それに粗利益、コストなどを良く理解しなくてはならない。

しかしそれと同時に最初に身につける必要があるのは、<お客の問題を解決しようとするひたむきな情熱と忍耐>である。

<あきない(商い、飽きない)>の情熱と忍耐をどこかで学び取る必要があるのだ。

上記の本には野菜園芸への情熱が綴られているとわたしは思う。

まず全体の調子である。

この種の本にありがちな<説明風>にではなく、<エッセイ風>に書いてあるのは大変ありがたい。

多くの写真やスケッチやイラストで読者が肩の力を抜いてどんどん読めるように工夫されている。

何よりも大切な点は筆者が何故、野菜作りに踏み込むようになったのかという動機と経過、その後の展開が書かれている事である。

エッセイ風の本文に混じって、個別の野菜の育て方が簡潔なレシピ風に書いてある。

つまり読者は本文を読んでいくにつれて、特に意識しなくても、色々なノウハウを同時に学ぶ事ができるのである。

わたしが驚いたのはノウハウ本の形式にとらわれずに、自由に色々な要素を文庫本サイズの一冊に纏め上げたそのユニークさである。

表装も洒落(しゃれ)ている。

本の著者も書いているが、考えてみるとベランダでの野菜作りには<菜園セラピー>とでも言うことができる<ある種の治癒力>がひそんでいるのではないだろうか。

<森林浴>が人の心と身体(からだ)に良い事は一般に広く知られている。

しかし<野菜のベランダ・ミニ菜園>が同じような効果を秘めている事を知っている人はそれほど多くはないのではないかと思う。

多くの都会人は狭い住居で生活している。

コンクリートで固めた、空調機のある密室風の狭い部屋である。

隣の人には気を使い、会社では人間関係に神経の休まる暇もない。

Teppouyuri80823hh 車社会なので、自然から遮断され、どこまで行ってもまわりは人工的な環境だけが広がっている。

わたし達は皆、ある種の息苦しさと孤独とストレスの中で生活しているのである。

それを打ち破り、広くて深い自然の中の自分を発見する。

それが野菜との出会いなのである。

さあ野菜のあるベランダに出てみよう。

ひと時のあいだ、<ストレスと利害損得の世界>を離れてみよう。

野菜は何も口をきかない。

寡黙なのである。

しかし良く観察すれば、野菜は色々な苦しみとか喜びを表現している。

それを続けていると、段々野菜がかわいくなってくる。

野菜との対話が始まる。

野菜は動かない。

いつでもそこにいて、わたし達の愛情を受けとめてくれる。

写真を撮ってもスケッチをしても何も文句をいわずに受け入れてくれる。

しかし野菜の本来の力を引き出し、めでたく収穫にまでこぎつけるには、こちらサイドにも多くの努力が必要である。

野菜に関する色々な本も読む事になる。

季節季節に合わせて種を撒くには細かい計画を立てなくてはならない。

育児日記があるように野菜の観察・栽培日記もある。

そして、いつの間にか頭脳をフルに回転させている自分がある。

野菜作りはわたし達の脳や意識を活性化するのである。

更に花とか木などの園芸と野菜作りが違う点は<収穫のあるなし>である。

野菜園芸では最後に、葉や根や果実を取り、それを食べるという行為がある。

最後に<味覚>が関係してくるのである。Aoshiso80823cc_2

この点が野菜園芸のユニークなところである。

一言で言えば、野菜作りは<人間の心と身体を新鮮に保つ力>を秘めているのである。

ある日曜日の午後、自転車で散歩の途中、畑の中にいた夫婦に思わず声をかけた事があった。

<すばらしいキュウリですね>とわたしは言った。

そうするとその老夫婦は収穫したキュウリを手にいっぱい抱(かか)えて<これを持って行くか>と自転車の荷物カゴに入れてくれた。

彼らの目は微笑み、輝いていた。

2008-08-22

消えたホウレンソウ

相変わらず家の庭で野菜作りに取り組んでいる。

苗を買ってきて囲い畑で育てたトマト、キュウリ、ナスは比較的順調に育ち、まあまあの収穫があった。Yuri80820aa

中でも驚いたのはピーマンの生命力である。

病気もせず、グングンと大きくなり、今までに8個位の実を取る事ができた。

そして未だ4個くらいの小さい実がなっている。

自分で作ったトマトやキュウリ、それにもぎたてのピーマンを食べた。

柔らかくておいしい。

わたしの小さな<ビギナーズ・ラック>である。

これに気を良くして、今度はタネを買ってきて<直播(じかまき)>に挑戦した。

播く場所は囲い畑ではなく、持ち運びが出来る<プランター>にした。

最初に播(ま)いたのは<ホウレンソウ>である。

数日経って一斉にかわいい芽が出たまではよかった。

でも間引きをして、その後順調に育つかと思ったら、次第にナヨナヨとしてきた。

その後、2週間くらいの間に、土に溶けてなくなってしまったのである。

大失敗である。

ホウレンソウは何故、消えてしまったのだろう?Begonia80820bb

土に苦土石灰を入れるのを忘れたからだろうか。

太陽の光が足りなかったのだろうか。

それとも水のやり過ぎ・・・?。

疑問が疑問をよぶ。

ホウレンソウの失敗で出鼻をくじかれたが、わたしはもう一度、直播栽培に取り組んだ。

今度は<ニンジン>である。

失敗の後だから念には念を入れて細部に注意をした。

幸い順調に芽が出て、その後、間引きや追肥も終わり、問題はないと思っていた。

しかし、数日前の大雨に打たれて、4センチにも伸びていたニンジンの苗は全部なぎ倒されてしまった。

今日の朝、その苗を一つ一つ起こしながら再度、間引きをして、土寄せも行った。

これでどうやら全滅は逃れる事ができたようである。

色々な体験を通じて分かった事は、<野菜は作れない>という事である。

<野菜は結局のところ自分で育つ>のである。

わたしに出来る事は<野菜本来の力>が発揮できるような条件作りである。

毎朝、庭の野菜を見るたびに<ホウレンソウ>の姿を思い出す。

そして思う。

<謎だ。
  あのホウレンソウ。
   あれは何故溶けてしまったのだろう?>。

2008-08-16

天地のドラマ

<あはれいかに
草葉の露のこぼるらむ
あき風たちぬ宮城のの原>
(西行、山家集0013)Akinokumo80816aa

空を見上げて家内がポツンと言った。

<秋の雲ね・・・>。

そういえば高く澄んだ空に薄い雲が流れていく。

吹く風もそこはかとなく秋の匂いがした。

それにしても昨夜の嵐は本当にすごかった。

夜8時ごろであった。

にわかにかき曇って、夕立が来る気配がした。

わたしはバタバタと2階に上がり、開けていた窓を閉めようとふと外の暗闇を見た。

その瞬間である。Retasunome80816dd

強い閃光がパッパッと光った。

家の前の双子山(ふたごやま)の全体が昼間のように光り輝いた。

山の木のひとつひとつが鮮明に見える。

それが2-3回繰り返された。

その時である。

ドドーン、ドドーン。

ガラガラー、ドカーン。

雷の音が響き渡る。

同時に家の電灯が消えた。

Asagao80816ee 停電である。

家内が懐中電灯をもって2階まで上がって来た。

間もなく電灯は元通りについた。

でも雷光に照らされた双子山の姿。

その姿がわたしの心から離れない。

わたしは2階の部屋の電灯を消して、暗闇の中、もう一度、山の方をじっとみつめた。

そうすると今度は巨大な稲妻が山の斜面を裂くように走った。

2度、3度と稲妻が走る。

双子山の全体が強く照らされ、暗闇の中にポッカリと浮かび上がる。

1木1草がはっきりと見えるようである。

このような光景を見たのは生まれて初めである。

大地は女神である。Mukuge80816ff

双子山は横たわる女神の乳房だ。

女神を貫く巨大な雷光は父なる天神。

次々と繰り返される天地の交わり。

厳かな天地のドラマがそこにあった。

わたしは唖然として息をのんで見つめていた。

激しい雷と雨の音を聴きながら。

2008-08-06

狐のいたずら

隣の家との境界の斜面に見慣れない花が咲いている。

橙色(だいだいいろ)をしている。Kitsunenokamisori80806aa

奇妙な事に緑の葉の姿は見えない。

草むらから茎が飛び出して、その先にオレンジ色の花がついているだけなのである。

しかも花は群落をなしている。

斜面はうっすらとしたオレンジ色の花に覆われて、絨毯(じゅうたん)をしいたようになっている。

<あれは何の花なんだろう>。

わたしは庭の草取りをしている家内に尋ねた。

<ヒガンバナじゃない?>と彼女は言う。

でもヒガンバナにしては時期が早すぎる。

Kitsunenokamisori80806bb それにヒガンバナはもっと真っ赤な色をしている。

わたしは庭に出る度(たび)にその花の事が気になって仕方がなかった。

<一体何という花なのだろう>。

心の中でいつもその疑問を引きずりながら、既に一週間が過ぎた。

昨日の夜、居間で植物図鑑をパラパラとめくっていた。

その時である。

あの花の写真が目に飛び込んで来たではないか。

そこで見た花の名前は?

<キツネノカミソリ>。

一瞬わたしは心の中でつぶやいた。

<何じゃこりゃ。
狐(きつね)の剃刀(かみそり)とは・・・>。

急いで説明を読む。

●スイセンに似た葉っぱは夏には枯れてしまう。
●その葉っぱの形がカミソリに似ている。Kitsunenokamisori80806cc
●その緑の葉っぱがパッと消えてなくなり、突然、その場所に派手なオレンジ色の花が咲く。<あの葉っぱはどこに消えてしまったのだろう。もしかして誰かが葉っぱを花に変えてしまったのだろうか>。不思議な感じを与えるので狐に化(ば)かされているような気分になる。だからその花をキツネノカミソリというのだそうである。
●キツネノカミソリの花が咲くのは8月の<お盆>の時期である。
●一方、ヒガンバナは9月の<お彼岸>の頃に咲く。

昔の人はおもしろい名前をつけたものである。

2008-08-04

次のバブル

まだわたしが子供の頃であった。

御飯を食べ終わって<ごちそう様!>と言って立ち上がろうとすると、父が激しい口調で言った。Hana80724gg

<御飯粒がまだお茶碗についているよ。
もったいない。
きちんと最後まで全部食べなさい! >。

1960年代の頃、それは日本のどの家庭でも見られたごく当たり前の光景であった。

当時の子供たちはこうして<もったいないの精神>を親から教え込まれて育ったのである。

ではこの<もったいないの精神>は一体どこから生まれたのであろうか。

考えてみるとそれは<戦後の食料難>という背景から生まれたものである。

第2次世界大戦が終ってみると、国敗れて人々は食べるものがない状況に直面した。

多くの家では、急いで新たに開墾したりして田畑を作り、自家栽培で米や野菜を作って食べた。

Tomato80724cc それでも足りずに、山菜を取って来て栄養を補ったのである。

春のツクシやワラビ取りの思い出が鮮明に蘇ってくる。

その他にカキ、モモ、タケノコ、キノコ、ミョウガ、フキ、サンショウ、セリ、ヤマイモなどを取って来て食べた。

更に多くの家では鶏やヤギなどを飼って卵とかミルクも自家でまかなおうとしていた。

さて、その<もったいないの精神>は現代の日本にまだ生きているのだろうか。

もしかすると<勤勉の精神>と一緒に忘れ去られてしまったのではないだろうか。

賞味期限の過ぎた弁当とか食料が毎日、無駄に捨て去られているという現実がある。

まだ十分に食べられるモノがポイポイと無残に捨てられているである。

テレビを見ると芸能人が大きな口を開けて色々なモノを食べるシーンが次から次へと映し出される。

あたかも食物が自由に手に入る状態がこのままいつまでも続くかのように・・・。

あたかも食物が無限に輸入できるかのように・・・。

何故日本人はこのような幻想におぼれてしまったのだろうか。

<多くの日本人にとって食物がないという経験はした事がない>というのが原因の一つとしてあげられるであろう。

食物がないという事が一体どういう事なのかを想像する事ができないのである。

この頃、おもしろい本を読んだ。

<次のグローバル・バブルが始まった!
   (山崎養世著、朝日新聞出版)>。

この本で山崎養世さんは以下のような意味の事を述べている。

●わたし達はアメリカのサブプライム(不動産バブル崩壊)問題に目を奪われているが、むしろその先にある問題に注意を向ける必要がある。

●その問題とはアメリカとか日本の低金利が次のグローバル・バブルを生み出しているという点である。

●不景気の日欧米から<余った金>がどんどんインド、中国、ベトナム、ブラジル、トルコ、中東、東欧、ロシアなどの高金利で高度成長を続ける新興諸国に流れ出ていく現象が続くだろう。

●もはや日欧米は世界経済のエンジンの役目を果たす勢いはない。現在の世界経済は高度成長を続ける新興諸国にリードされるようになっている。

●今までの円キャリーに加えて、ドルキャリーが巨大な規模で行われ、それが新興諸国に投入され、その結果、世界的な規模のバブルが生じつつある。
新しく30億人規模の人たちが資本主義化して、先進国化を目指して日々、怒涛の前進を続けているのである。

●その結果、わたし達は今、世界的なインフレ時代を迎えようとしている。

●特に食料、エネルギー、水などの諸資源が不足して、世界中に紛争が多発するようになるだろう。

●そして巨大なグローバル・バブルが破裂した時、世界的規模の崩壊に現在の世界経済は耐えられないかもしれない。

●でも100年単位で見ると新興諸国の成長はバブルを乗り越えて続いて行くであろう。誰にもそれを止める事は出来ない。

全体的に見て、その通りであるとわたしは思う。

<飽食の時代>などと日本で騒いでいるうちに、世界の舞台は次のシナリオに向かって急速に進んでいるのである。Sarusuberi80801aa

2015年。

東京のある家庭の様子。

<おいこら、味噌汁を残すやつがあるか。最後まで食べなさい!もったいない!>

ふと外を見ると、家の庭やベランダには野菜栽培用のプランターがぎっしりと所狭しと並べられている。

ニンジン、ジャガイモ、ナスビ、キュウリ。

その家では、ほとんど全部の野菜が自家栽培でまかなわれているのである。

2008-08-01

色々な花

朝早く庭に出ると紫色のアサガオが咲いていた。

透き通るような青を見ていると気が遠くなりそうである。Asagao80801bb

いつまでも見ていたい青色である。

納屋の近くにあるキンカンの木に白い花が咲いている。

Kinkan80729bb 沢山の蜂がブンブンと花のまわりを飛んでいる。

キンカンの蜜は蜂の大好物のようである。

見慣れない花を見つけた。Tessen80726dd

蔓(つる)の上に咲く紫の花。

テッセン(鉄線、クレマチス)である。

日本には江戸時代に渡来した花で、鉄線のように強靭であると言うことからこの名前が付けられたという事である。

Mukuge80801cc_2 毎日飽きずにムクゲの花を眺めている。

この世にこんなに清楚な花があったのかと思う。

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