万葉集
万葉集を読んでいる。
読み始めたが、最初は中々とっつきにくかった。
他に何か読みやすい万葉集はないかと色々とあたってみた。
例えば講談社文庫の中西進編の万葉集4巻とか、集英社文庫の伊藤博編の全10巻とかである。
毎日気分に応じて交互に読み進めた。
でも結局、最後にいつも枕元にあるのは岩波の2冊なのである。
4500首という膨大な数の歌を上下2巻の読みやすい形の中にまとめ上げた佐々木信綱さんの努力。
それに対していつの間にかありがたいと感謝している自分があった。
何故だろう。
何故わたしは佐々木さんの2冊に引きつけられるのだろう?
考えてみると色々な理由がある。
1番の理由は、たった2冊だから、わたしでも最後まで読破できるだろうという<希望>を与えてくれるからである。
他の万葉集は4冊と10冊である。
佐々木さんのものはその半分あるいは5分の1である。
旅に出る時などは、2冊をさっとカバンに入れる。
これで万葉集がまるごと旅の道連れになる。
これは大変ありがたい。
もう一つの理由は中西さんの文字のサイズが比較的、小さくて読みづらいのである。
わたしは寝る前にベッドの中で読む事が多い。
そうするとどうしても佐々木さんの方に手が伸びてしまうのである。
では伊藤さんの10巻はどうなのだろう。
これは初めから終わりまで、1つの読み物として通読できるような形になっている。
歌とその解説が連続しているのである。
それぞれの歌の歴史的な背景や、歌の解釈。
それに歌の作者に関する説明等が続く。
初めのうちは喜んで読んでいた。
しかしそうこうするうちに、これが少しうっとうしくなる。
というのは今度はその説明の部分に分からないところが出てきて、気がつくと、肝心の歌という焦点がぼやけてしまうのである。
やはり歌そのものに光があたっている方が良い。
佐々木さんは、読者が歌から歌へ自分の想像力を駆使して読んでいくのを期待していたのである。
最小限の注釈は歌の下の部分にある。
それで十分だと考えたのである。
もともと万葉集は大部である。
そのすべての歌を全部理解する事は至難である。
むしろ、より重要な事は読者が自分の想像力を頼りに、夫々の歌のこころの中に入っていく。
全部の歌を理解する必要はない。
自分の触覚に感じる歌があれば、それを何回も繰り返し味わう。
それが大切なのだと考えたのだろう。
だから気軽に携帯できるように2冊に収めようと努力したのに違いない。
*
上記の3種類の万葉集には各々にその特徴がある。
だから読者によって、これを好む人、あれを好む人と色々あるだろうと思う。
冊数が少なく大き目の文字が好きな人は佐々木さん。
原文、全訳、注釈つきのものが好みの人は中西さん。
万葉集を詳しい説明と一緒に読み物として読みたい人は伊藤さんという事になる。
わたしはまだ万葉集を読み始めたばかりである。
しかしそれでも万葉集は以外に分かり易いと思う。
それは例えば芭蕉の俳句などと比べてみればすぐに分かる事である。
芭蕉の俳句はパッと読んで分かるものは以外に少ない。
古い万葉の歌の方が、新しい芭蕉の俳句より、現代人にとって分かりやすい。
それがどこから来るのかは良く分からない。
わたしが直感的に言える事は万葉集は未だ大陸の影響が少ない8世紀に成立したもので、日本本来のこころが未だその中に残っているのではないかという事である。
朝鮮や中国の影響、それに仏教や儒教がまだ深く浸透していない時代の歌なのである。
万葉集は、いわば1万年ほど続いた<縄文>を引きずっているのではないか。
だから同じ日本人のDNAを持つわたしのこころに素直に響いてくるのではないか。
そう思うのである。
*
例えば次の歌。
<東(ひむがし)の
野にかきろいの立つ見えて
かえりみすれば
月西渡(つきかたぶ)きぬ>
(万葉集48)
(東の方を見ると
日の出の太陽が
いま昇ろうとしている。
広い野原のうしろを
ふり返ると西の空には
月が山の上にかかり
沈もうとしているところである)。
日本のどこにでもある風景が平易な言葉で詠まれている。
*
何処からともなく、次のような歌が浮かんでくる。
<菜の花や
月は東に
日は西に
(蕪村)>
この場合は夕方である。
1面の菜の花畑である。
日が西に落ちて、東からは
今や月が昇ろうとしている。
念の為。
太陽も月も
東から昇り
西に落ちていく。
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