山川草木に合掌
わたしは元来、胃が弱く正露丸が離せなかった。
ラッパ印の正露丸がいつも台所の引き出しの中に入っていた。
それを飲んで仕事に出かける事が多かったのである。
家内はそんなわたしの姿を、<また薬なの・・・>と心配そうに見ていた。
わたしの胃弱は母からの譲り物かも知れない。
思い返すと、毎日多忙な母にとって正露丸なしの生活は考えられないほどであった。
わたしも仕事の多忙さとストレスの中で正露丸依存症になりかけていたのかもしれない。
*
そんなわたしが今では殆ど薬を飲まなくなった。
何故だろう。
それは現役を退いて、田舎に移ってストレスがなくなったからではないかと思う。
わたしはもともとは田舎生まれである。
生粋の都会人ではないのである。
だからいまは古巣に帰ってきたような気持ちがする。
周囲には山と川があり緑の自然に満ちている。
温度も都会と比べると2-3度は低い。
早朝、家のまわりをゆっくりと歩く。
霧のかかった山を見上げ、庭の木々や草花を見る。
秋ジャガイモの植わった小さい畑を良く観察する。
プランターのミニトマト、ナスビやキュウリに水をあげる。
*
夕方、庭をまわっているとそこここに赤とんぼが飛んでいる。
なつかしい。
少年だった頃に戻ったみたいである。
あの頃は数え切れないほどのたくさんの赤とんぼが稲田の上を飛んでいた。
佐々木小次郎のまねをして、竹棒を振り回しトンボを追いかけていたのを思い出す。
*
昨日は久しぶりの快晴である。
夜暗くなって、庭に出てみると澄んだ空にお月様が出ていた。
半月である。
あたりには虫の音がきこえる。
早速、双眼鏡を持ち出してお月様を見た。
半月の光と影の境目に大きなクレーターが輝いているのが見える。
月のすぐ横に宵の明星、金星が瞬いている。
夜の星を見上げたのは久しぶりである。
田舎ではまだ山や川や草木や星が生きている。
その片隅に生きている小さな自分がある。
虫の音だけがあたりいっぱいに響いている。
わたしは双眼鏡を首にかけたままいつしか月に向かって手を合わせていた。
*


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