手入れの思想
田舎の家に移ってきた最初の年は本当に大変だった。
夏になるとアッと言う間に庭と庭の周りに草が伸びる。
<草ぼうぼう>とは良く言ったものである。
毎日午前中は家内と一緒にぼうぼうと伸びた草を取り、草を刈った。
30分もすると汗が首筋から流れ落ちてくる。
背中はもう汗だくだくである。
それはまるで草との戦争である。
それが夏の間、延々と続いた。
未だ堆肥を作る事も知らなかったので、取った草はプラスチックの袋に入れてゴミとして出した。
ゴミ出しの日は大変である。
自転車で4-5袋の草を遠くのゴミ出し場まで何回も何回も運んだ。
庭木もどんどん伸びていく。
でも、それをどうやって剪定して良いのか分からない。
図書館に行って庭木の剪定の仕方に関する本を借りて読んだ。
しかし、それを読めば読むほど、イザ、実際に剪定をするとなると皆目分からなくなるのである。
仕方がないので無手勝流のやり方で、メチャメチャに切った。
そのような悪戦苦闘の1年が過ぎた。
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1年を過ぎた頃、毎日庭を歩いてまわる事がわたしの日課になっていた。
早朝と夕方の2回、わたしはハサミを持って庭をまわる。
庭に転がっている石ころ、垣根に咲いている朝顔の花、自分の背丈ほどに伸びたコスモスの花壇、先週植えたキャベツとタマネギの畑。
庭にある全部のモノに目をこらし、それらを良く観察する。
毎日毎日、この<庭巡(めぐ)り>を繰り返しているうちに、庭と畑のすべてのモノがあたかも自分の身体(からだ)の1部であるかのような気持になっていった。
そして庭や畑のちょっとした変化もピンと感じ取れるようになったのである。
プランターに育てているホウレンソウに小さいコメツキバッタが2匹もいた。
すぐに手で取り除いた。
その後、納屋から虫除け用のネットを取り出して、プランターに張った。
垣根のアカメモチの芽がこのところの雨でひどく伸びている。
さっそく、長い剪定バサミでチョキチョキと伸びた芽を切った。
庭のサツマイモ畑のツルが伸びて棚から垂れ下がっている。
短く切ったヒモで、ツルを棚に固定した。
納屋の裏のキャベツ畑を見ると、鳥が食べたのか、沢山の柿の実が畑に落ちている。
すぐに落ちた実を堆肥場に持って行って捨てた。
庭や花壇に生えた草は見つけ次第、手で抜き取り堆肥場に持っていく。
観察と、その場での対応。
それを毎日毎日繰り返した。
こうして、わたしはようやく<草ぼうぼうの庭>とはオサラバする事が出来たのである。
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先日、養老孟司さんの<いちばん大事なこと>という本を読んでいたら、次のような意味の1節があった。
●日本人は自然と戦うのではなく、
<手入れ>という独自の思想で
自然とつきあってきた・・・・。
ああそうだったのか。
毎日の庭周(にわまわ)りと、庭の変化にその都度(つど)対応する、自然との根気のいる綱引きのやり方が<手入れ>なのだと気がついたのである。
毎日、隅々まで観察しているので、少しの変化も見逃さない。
日々の観察に基づいて、ちょっとした変化にも対応していく人間の行動の仕方が<手入れ>なのである。
このやり方は優れている。
<これはああしなさい、あれはこうしなさい>というマニュアル方式は、まず頭の中にプランとかデザインがある、いわば<頭入れ>方式である。
自然の観察に基づいての微調整の積み重ね、自然と人間とが一体になるのが<手入れ>方式である。
わたしはいつの間にか、上記の<頭入れ>のやり方から、<手入れ>というやり方に移行していたのである。
<手入れ方式>を身につけて以来、わたしは庭や畑と以前より気楽に付き合えるようになった。
とりあえず、変化に対応して即、その場で手を入れる。
それでうまく行く時もある。
失敗する時もある。
失敗したら、次には別の手を入れる。
忍耐強く、積み上げていく<手入れの哲学>である。
何百年間もの間、村々において、うまずたゆまず積み上げられてきた、自然と人間の微調整の結果。
それが今、わたし達が見る緑豊かな里山の自然なのである。
それは決してだれかが<頭入れ>のやり方で計画して出来たものではないのだ。
村の人々とその周りの田畑や山々は渾然1体のモノなのである。
その2つは決して切り離す事はできない。
ちょうどイチローと野球が1体であるように。
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