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2006-07-08

山上憶良

風雑(まじ)り雨降る夜の
雨雑り雪降る夜は、
すべもなく、寒くしあればFuukei1_1 
堅塩(かたしほ)を
とりつづしろひ、

(風をまじえた雨がふる夜
雨をまじえた雪がふる夜
どうしようもなく、寒いので
塩をかじって)

糟湯酒(かすゆざけ)
うちすすろひて、
しはぶかひ、鼻びしびしに、
しかとあらぬ、
ひげ掻(か)き撫でて、
我れをおきて
人はあらじと誇ろへど、

(酒かす湯ををすすり
ゴホゴホ咳をしながら、
鼻をグズグズさせて
少し伸びた不精ひげをかきなでて
なんだあいつなんか
おれの方ができる
おれより能力のあるやつはいない
と心ではいばってみても)

寒くしあれば
麻衾(あさぶすま)引き被り、
布肩衣(ぬのかたぎぬ)
ありのことごと着襲(きそ)へども、
寒き夜すらを、
我れよりも貧しき人の
父母は、飢ゑ凍ゆらむ、
妻子どもは乞ふ乞ふ泣くらむ、
この時はいかにしつつか、
汝が世は渡る

(寒いので
粗末なふとんをかぶって
ありったけのきものを着てみても
それでもまだ寒いのだから
自分よりも貧しい人達の
年老いた父母は、
今頃は食べ物もなく飢えて
その寒さにこごえているだろう。
妻や子供は
どんな気持ちで泣いていることだろう。
このような時代に
お前は何をしようというのだ。
どうやって、このような世の中を
渡って行こうとしているのだ)

天地は広しといへど、
我がためは狭くやなりぬる、
日月は明しといへど、
我がためは照りやたまはぬ、
人皆か我のみやしかる、

(天地は広いと言っても
わたしにとっては狭苦しいだけだ。
太陽や月は明るいと言うけれども
わたしのまわりは暗闇ばかり
他の人にとっても、そうなのだろうか。
それともそう感じるのは
わたしだけなのだろうか。)

わくらばに人とはあるを、
人並に我れも作るを、
綿もなき、布肩衣(ぬのかたぎぬ)の
海松(みる)のごと、
わわけさがれる、
かかふのみ肩にうち掛け

(たまたま人と生まれ
人並みに仕事を
しているのだけれど
それでも綿のない
ボロボロの着物を
肩にうちかけて)

伏廬(ふせいほ)の
曲廬(まげいほ)の内に、
直土(ひたつち)に
藁(わら)解き敷きて、
父母は枕の方に、
妻子どもは足の方に、
囲み居て憂へさまよひ

(軒の低いそまつな
倒れかかったような家に
地べたにわらを敷いて
父母は枕のところに
妻子は足のところに
取り囲むように
嘆き悲しんでいる)

かまどには火気吹き立てず、
甑(こしき)には蜘蛛の巣かきて、
飯炊くことも忘れて
ぬえ鳥の、のどよひ居るに、
いとのきて、短き物を端切ると、
いへるがごとく、しもと取る、
里長(さとおさ)が声は寝屋処(ねやど)まで、
来立ち呼ばひぬ
かくばかり、すべなきものか、
世間の道 

(かまどには火の気がなく
お釜にはクモの巣がかかって
いつ最後に飯をたいたか
もう忘れてしまった。
夜中にヒョーヒョーと鳴く
トラツグミの鳥のように
うめき声を上げていると
これ以上短くはならない物の
端っこを切るように
刑罰の杖を持った
村の長が寝ているところまで
踏み込んできてわめく。
このように、夢も希望も
ないものなのだろうか。
生きるという事は。)

<萬葉集巻第五 貧窮問答歌>

*

これは山上憶良(660-733年)の<貧窮問答歌>である。

うたわれているのは、貧乏のつらさ、自分の待遇への不満と愚痴、生きていく事の苦しさである。

いまから1300年ものむかしの日本。

それが現在の日本に重なる。

歌があまりにも、生き生きとしているので、何だか、今日の日本で起きている事のように感じられるのだ。

不思議な歌である。

山上憶良が尋常な歌人ではなかった事がこの歌をよむだけで分る。

*

彼は奈良時代初期の下級貴族である。

702年に唐に渡り仏教とか儒教を学んだ。

帰国後、地方の国司を歴任しながら、数多くの歌を詠んだ。

今で言えば海外の支店で働き、日本に帰ってきたような感じ。

それから次々に日本の地方の支店長として派遣されたという事だ。

つまり左遷されたのだ。

海外の匂いが強すぎたのだろう。

山上憶良は唐にいた時に吸収した仏教や儒教の思想を持っていた。

だから生老病死の人間の苦しみを受け止める感性が磨かれていたのだ。

自分は役人であったが、重税にあえぐ民衆の苦しみを見た。

兵として徴集される夫を見送る妻の絶望の姿を見た。

そして自分の姿をよく見ると、自分は九州の筑前守。

その上司は大宰帥(大宰府の長官)<大伴旅人>である。

歌の上ではライバルである。

片や大友氏という名門、顕門。

片や後ろ盾のない寒門の自分。

月とスッポン。

才能では人に抜きん出ていた山上憶良。

それだけに地方への左遷の痛みは身に応えた。

その痛みが民衆の痛みと重なっているのだ。

*

<貧窮問答歌>は長歌である。

長歌には最後に<反歌>という和歌が付けられる。

"世のなかを憂しと恥(やさ)しと

思へども、飛びたちかねつ

鳥にしあらねば"

この世は苦痛と恥辱に満ち満ちている。

そう思っても、飛び立ってほかの所に

いけるというわけではない。

自由にどこへでも飛んで行ける

鳥ではないのだから。

*

2006-06-09

光の画家モネ

モネ(Claude Monet, 1840- 1926)はフランス印象派の中心にいた画家。Monetsuirennnoike1_3   

彼が1874年に出展した<印象・日の出>という作品を見たある批評家は、同じ傾向を持っている絵画を<印象派>という言葉でこき下ろした。

従来の端正な風景画を見慣れた人には印象派の絵は、まだ完成していない絵に見えたみたいなのだ。

こうして、印象派という言葉が生まれた。

つまりモネは<印象派>という言葉の由来の源だったのである。

*

モネを巡る話はたくさんある。

彼の妻であるカミーユに関しての話から始めよう。

日本の着物を着てモデルになっているのがカミーユである。

Monetjaponezu_1 フランスでは当時、<日本の浮世絵>が大変な話題になっていた。

モネ自身も、浮世絵が大好き。

自分で200枚もの浮世絵版画を収集する位熱心な浮世絵ファンだったのである。

その日本ブームに影響されて描かれた作品である。

カミーユは32才の若さで亡くなった(モネ39才)。

彼女が亡くなったその時、モネは妻の最後の姿のデッサンを始めたというのだ。

......私とかたい絆で結ばれていた人の顔立ちを描きとめるようと考える前に、すでに私の体は色彩に反応し、私の意志とは関係なく反射的に、毎日続けられてきた無意識の行為へと、私を駆り立てていたのです。>。

Monetpopulanamiki

<描くことは私の業のようなもの、喜びであり拷問なのです.....>とモネは語っている。

*

モネは86才でなくなる。

印象派グループの画家の中では一番の長生き。

そして彼だけが一貫して<光の画家>として、死ぬまで印象派の技法を磨き続ける。

つまり、彼こそ、最も印象派的な画家なのだ。

<印象派>という名前の起源になっただけではなく、それを最も自分の作品の上に体現した画家なのである。

*

Monetsuirenn3 印象派というのは外界の光の微妙な変化をとらえて、それを描く。

つまり極端に言えば、大変<受身>で<女性的>な技法なのである。

のちに、大胆なデフォルメの技法で独自の画境を開き、印象派を離れて行ったセザンヌは次のように言っている。

<モネは眼にすぎない。だがなんという素晴らしい眼だろう>。

モネの繊細で、

女性的な、

Monettsumiwara

殆ど反射的、

無意識で、

本能的な姿勢。

<描くことは私の業のようなもの、

喜びであり拷問なのです.....

と言った絵に対するモネの言葉には

Monetsuirenn2 わたし達のこころを打つものがある。

セザンヌを硬い宝石の輝きに例えるとしよう。

モネは、さしずめ、蓮の咲く池の底知れない青色の世界だ。

わたしはモネの<深い青>が好きだ。

*

2006-06-03

セザンヌと水彩画

セザンヌ(1839-1906)はフランス印象派の筆頭に来る画家である。

その作品は膨大な数にのぼる。Foliage

わたしが好きなのは軽いタッチで描かれた、かれの水彩画である。

油絵の重厚さ、しつこさがない。

サラッとして美しい。

セザンヌの水彩画には透明なダイアモンドのような輝きがある。

セザンヌが水彩画を書き始めたのは、セザンヌ独自の画風が定まった時期と同じ時期である

Cezannesuisai1 つまり1885年頃。

セザンヌは46才になっていた。

*

セザンヌは次のように言っている。

<自然は内にある>。

それまでの画家は<外の対象物>にこだわっていた。

外の対象物をどれだけいきいきと、キャンバスに再現するかというCezannesuisai3 点に集中していたのだ。

一方、セザンヌは<自分のこころの中のイメージ>を描き始める。

この時に絵画は外の実物というものから自由になったのである。Cezannesuisai2

セザンヌ以後の画家は、外部の物に触発され、こころの中に生じたイメージを自由に構成するようになる。

そして、デフォルメされた自由な絵が生まれる。

こうして、セザンヌは、後のピカソのような絵画に道を開いたのである。

ピカソはふと言っている

セザンヌは<まるで我々みんなの父のようだ>。

Rovenoniwa *

水墨画や浮世絵においては、<空白>は決定的な役割を果たしている。

一方では西洋の油絵は、キャンバスに空白はない。

画面全体が色で塗りつぶされる。

西洋画は空白を嫌うのである。

しかし例外がある。

セザンヌの水彩画である。The_green_pot_1

かれは空白を非常に意識して使っているのだ。

セザンヌは、この技を水墨画や浮世絵から学んだのだと思う。

だからセザンヌの水彩画がスーッとわたし達のこころを打つのかもしれない。

*

2006-05-19

王羲之

ここに掲げた写真は中国、西周時代(BC1023-BC771)の金文である。

金文というのは周王が諸国の王に送った青銅器に鋳込まれた文字。

*Kinnmonn_1 

今からおよそ3000年前のものである。

その語句は今でも次のように読める。

<天畏王曰於命女

孟刑乃.......>。

*

もともと漢字は初めは宗教的なもの、神聖なものであった。

神と王が占いを通じて交信したその記録から生まれたのが漢字なのだ。

いわゆる甲骨文字である。

それがいまから約3400年前。

*

Ougishiisshou_2 王羲之が生まれたのは303年である。

だから上記の金文と王羲之の間には、1000年以上の年月が横たわっているのである。

その間、甲骨文、金文、小篆(秦篆)、隷書と漢字の形は変化して来た。

という事は王羲之は、突然現れたのではない。

過去の長い漢字の歴史と、その蓄積の上に、やっと彼の書が出てきたのだ。

*

疲れた時などに王羲之の書を見る。

そんな時にふと疑問に思う。

今から1700年も前に一人の中国人が書いた書が何故、こんなに大事にされ、親しまれているのだろう.......と。

それに、なぜ王羲之は<書聖>と言われるのだろう。

他にいろいろ達筆な書人がいるではないか。

なぜ王羲之がこんなにもてはやされるのだろう。

この疑問について、ある専門家は大要、次のような事を言っている

*Kanjidaimokkan

むかし紙がまだなかった頃、文字は薄い木とか竹の板に書かれた。

それが木簡、竹簡である。

写真は漢の時代の木簡に書かれた文字。

これをよく見ると分るとおり、右手に筆を持ち、左手に木簡を持って書いている。その際、筆は木簡に対して垂直、90度になるように手と木簡の角度が調節されている。

それは文字の書き出しがスッと素直に入り、終わりも素直に終わっているのを見ると分る。

この書き方が中国では長い間行われた。

その結果、これが中国のいわゆる<正統な>書法になったのである。

漢字の形が小篆、隷書でも同じであった。

筆と木簡(または竹簡)の角度は90度。

筆の先は書かれた線の中央を進む。

これが正統書法で<正鋒>(せいほう)といわれた。

*

しかし時は移り、文字を木簡とか竹簡に書く時代が終わり、紙の時代が来る。

<紙>という文字が歴史に初めて登場するのはAD100年頃。

<説文解字>という中国最古の辞書に最初に<紙>という文字が見える。

紙はその後、後漢の時代105年頃、蔡倫(さいりん)という人により改良され、急速に普及。

木簡や竹簡はたちまち駆逐される。

*

紙の時代が来ても、上記の伝統的な習慣、正鋒は変わらなかった。

以前として中国では、正鋒だけが正統書法と見なされたのである。

紙を使うが、その際に紙を丸め、その丸めた紙を左手に持つ。

筆は以前として紙に対して直角にして書く。

よく映画などで武士が丸めた紙に筆で手紙などを書いている姿を見ることがある。

あれである。

あるいは別のやり方。

紙は机の上に置くが、筆と紙はやはり90度の角度を保ち、垂直に書く。

これらが長い間、一般的な書き方であった。

つまりみんな長年染み付いた習慣から脱却する事が出来なかったのである。

Ibojyou *

そこに登場するのが王羲之である。

王羲之は若い頃は従来通りの正鋒で書いた。

この写真は王羲之が若い頃に書いた<姨母帖>(いぼじょう)である。

彼はここでは周囲と同じように正鋒で書いている。

筆を入れる時にスッと素直に入っている。出るときもスッと出ている。

しかし次の<喪乱帖>(そうらんじょう)をみると、これは正鋒ではない。

何が起こったのだろう。

紙は手に持つより、そのまま机の上に置いたほうが自然である。

そこに筆を下ろすと、自然に角度は45度位になる。

このスタイルを偏鋒(または側鋒、側筆)とよんでいる。

しかし角度をつけると筆先が、書かれた線の上部を進むことになる。

だから線の初めと終わりがギザギザになり汚くなる。

またどうしても右上がりになるのが避けられない。

王羲之は上に上げたような偏鋒の癖とか欠点とかをすべて飲み込んで、試行錯誤の末に、問題を乗り越えた。

そして、逆にそれらのすべてを生かして新しい時代の書体を作り上げたのである。Sourannjyouougishi_1

その新書体で草書、行書、楷書を書いただけではない。

彼はそれらの理想的な形を考え、それを時代を超えた典型にまで練り上げたのである。

これが王羲之の革新である。

*

王羲之は中国の楷、行、草書の三書体を芸術的に完成させたと言われている。

その意味するところは以上の偏鋒書法にある。

*

ところで奇妙な事に、中国の正統は王羲之以後も、正鋒であり続けたのである。

正鋒の墨守が中国書法の正統なのである。

今もってそうである。

では、なぜ王羲之は異端者のそしりを免れたのだろうか。

*

ここに一人の重要な人物が登場する。

唐の皇帝、太宗である。

かれは書を愛した。

特に王羲之の書を愛した。

王羲之の書を中国全土から集められるだけ、すべて集めて自分で所蔵した。

神品と言われていた王羲之の<蘭亭序(らんていのじょ)>もやっとの思いで自分のものにした。

そして太宗は死ぬ前にこう言った。

<わたしが欲しいのは蘭亭序である。わたしと共に行かせてくれ>。

こうして、蘭亭序は皇帝と一緒に葬られたのである。

王羲之の名声は、この時に中国で確立した。

異端者の王羲之が同時に公に書聖としてたてまつられた瞬間である。

いわば太宗は王羲之の書聖という肩書きの碇、アンカーとして作用したのだ。

同時に王羲之の書は中国の正統の流れからは外れている。

ちょうどこれは一面の白い水仙の花壇に一つだけ黄色に輝く水仙があるようなものである。

こうして王羲之は<永遠の革新者として、永遠のあたらしさ>を獲得したのである。

中国に<正鋒>という奇妙な<正統の伝統>が居座り続ける限り、王羲之は永遠に新しい革新者なのである。

*

ところで皇帝の太宗が王羲之を愛したのは、中国の貴族の歓心をかうためだったという人もいる。

唐という国はもともと北方の匈奴に服属していた鮮卑族が建てた国である。

だから太宗は王羲之の書を政治的に利用したというのだ。

つまり鮮卑族出身のわたしも中国の書をこれだけ崇拝しているといって、中国文化への帰属を宣伝、強調したという訳である。

しかしわたしはそうは思わない。

皇帝といえども、死ぬときは所詮、一人である。

皇帝といえども死ぬときは、普通のさびしがりやの弱き人間になる。

王羲之の書には何とも言えない活気がある。

だから、太宗はさびしい死の床に王羲之の書を置きたかったのだろう。

わたしはそう思う。

*

2006-05-17

メアリー・カサットの絵

< 庭園で縫い物をする娘 >(1880-1882)

この絵を見た時、何かハッとするものがあった。

それは何だったのだろう。

この絵から発散するもの。Casattnuimonowosuruonna_1 

それは言いようもない自然さ。

人に見せようとする美しさではない。

縫い物にいそしんでいる、

彼女のその姿自体に憩う世界。

そういう言葉でしか言い表せない。

これを描いた人は一体何者なのだろう。

そう思っていろいろと調べて見た。

そうすると次のような事が分った。

この画家の名前は<Mary Cassatt>( 1844-1926)。

何とアメリカ人女性である。

彼女はアメリカ、ペンシルバニア州のピッツバーグに生まれた。

10才の頃すでに多くのヨーロッパの国々を訪問していた。

裕福な家庭だったのである。

両親は教育熱心。

だから、両親は彼女が関心を持っている分野の最高の教育を受けさせる事をためらわなかった。

17才でペンシルバニア芸術学校に入った。

卒業後、両親を説得して、ヨーロッパに渡り、更に勉強を続けた。

Bluedancersdegas いろいろな町を転々としたが、最後にフランスのパリに落ち着いた。

パリでエドガー・ドガと知り合う。

彼は印象派を代表する画家の一人である。

パステルを用いた踊り子の作品が有名。

線を非常に大切にして、生涯デッザンを続けた人である。

カサットはドガを大変尊敬していた。

ドガもカサットを評価していた。

カサットはパリで開かれる印象派の展覧会にはいつも一緒に彼女の作品を出展した。

アメリカ人の画家で印象派展覧会に出展する人などほとんどいなかった時代である。

その中で、しかも、女性画家として、何年にもわたって出展。

そのかいあって、彼女はヨーロッパではじょじょに<女性と子供を描く画家として>名を知られるようになっていった。

それまでは、女性や子供が絵に登場する場合、着飾って、取り澄ました姿で描かれる事が多かった。

カサットは、日常の姿のままの女性や子供を好んで描いた。

ソファーに座った母親に抱きつく子供。

手紙を読む女。

若い女の日常の姿などを描いたのである。

*

1880年代の後半、カサットはある展覧会で日本の版画を見た。

パリではその頃、日本の版画が熱狂的な反響をよんでいたのである。

カサットは日本の版画(浮世絵)に心をうたれ、しびれてしまった。

見るだけではなく、さっそく、自分でも版画を始め、200以上の版画作品を残している。

その結果、彼女の絵画作品にも、日本の浮世絵版画の影響が濃厚に表れているのである。

ヨーロッパでは成功したものの、カサットはアメリカでは無視され、全く無名のままに終わった。

アメリカとフランスの狭間で孤独に生きた一人のアメリカ女性画家。

繊細な女性の筆からあふれる、こころが伝わってくる。

ひょっとして、わたしが<縫い物をする娘>の中に見たのは、慎み深い日本女性の姿だったのかもしれない。

*

 

2006-05-15

百人一首

<人はいさ>

紀貫之の歌一つ。

*Umenohana_1

*

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人はいさ

心も知らず

ふるさとは

花ぞ昔の

香ににほひける 

(百人一首35)

紀貫之(きのつらゆき)

*

あなたの心は、

むかしのままかどうか、

さあ、それは

よくわかりません。

でも、昔はよくここへ来て

いまは自分のふるさとのよう

に思っている

初瀬の里。

そこに咲くの梅の花は、

むかしと同じかおりで

美しく咲いて、

わたしをむかえてくれます。

どうかあなたも、むかしのように

やさしくわたしを

むかえて下さいませんか。

*

思い出してほしい。

むかしはこたつを囲んで

みかんなどを食べながら

百人一首などで

よく遊んだものである。

"田子の浦に..........."

"ハイッ"

という声がまだ耳に残っている。

百人一首はよく知られている。

でもこれをカルタだけの遊びに

するのはもったいない。

一日一つの百人一首。

今度はそれを自分の

こころの中で味わってみては。

これだけ短いことばの中に

世界を詠んだのは

日本人だけなのだ。

しかもこれだけの膨大な数の

1000年以上にものぼる歌の蓄積がある。

まさに、日本の宝。

オンリーワン。

*

紀貫之(きのつらゆき 868~945)は

<古今集>を編集した4人の内の一人で、

その中心者でもあった。

さらにかれは日本ではじめて

日記を文学作品として書いた。

<土佐日記>である。

いまのことばで言えば

<さいしょの本格的な

ブロッガーBLOGGER>。

*

2006-05-05

つめたいしずく

< 何と云われても >    

      *  

何と云われても

わたくしは

ひかる水玉

つめたい雫(しずく)

Shuzuku_3 *

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すきとおった

雨つぶを

枝いっぱいにみてた

若い山ぐみの木

なのである

    *

    *

  宮沢賢治 『詩ノート』( 二七・五・三 )