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2006-04-04

自分大学

ディジタル時代が幕開けした。しかしインターネットでわたしたちの生活がより楽しく、充実したものになっただろうか。世界中にはりめぐらされたWEB。フラットな世界。それによって本当に世界が1つになったのだろうか。

Rengesou むしろ日本から1歩出ると色々な言葉の障壁がいよいよ高くわたしたちの前にそびえ立っている事を知るのではないだろうか。海外旅行をしなくても、インターネットでお隣の韓国のサイトに行くだけでいい。まったく自分の知らない意味不明の世界が広がっているのである。

フラットな1つの世界。本当にそうだろうか。アングロサクソン族の人は英語が世界の言葉だと自分勝手に思い込んでいる。でも何かふにおちない。現実の世界は様々な言葉によって区切られたモザイクの世界なのではないだろうか。

文化は結局は<言葉>である。つまり世界の文化は言葉の数だけあるのだ。

しかしここに革命と言えるほどに変わった点が1つだけある。それはアクセサビリティー。ある情報にタッチできる度合いである。昔は英語の新聞を読むには高い金を出して、丸善等で予約しなくてはならなかった。今はGoogleで<Times>と打ち込む。そうするとすぐに<Times online>が画面に現れるのである。その間数秒。タダである。

そう。変わったのは世界ではなくむしろ自分の側なのである。自分の手の平に自分が求める情報が突然、ポンと載っている。

自分が何を、どんな情報を求めているのか。それをどう使い生かすのかのか。これが焦点になっているのだ。あくまでも自分の側の状況が一変しているのである。

これに早く気がつく事だ。

パソコンはこの観点から見ると、自分大学そのものである。自分のパソコンの中に自分の計画、学習プランがある。そしてパソコンの外には瞬間アクセスできるディジタルな教材がある。これがわたしたちの今の環境なのである。

自分は何を学ぶのか。その具体的なカリキュラムは何か。それをはっきりさせれば、みんな自分大学を始める事が出来るのである。しかも殆どタダで。でもこの大学には卒業はない。卒業証書もない。だから楽しみながらやればいいのである。

2006-03-26

OFFラインのすすめ

想像してほしい。今あなたは机について受験勉強中であると。でもコンピューターが目の前にある。BB常時接続でTVチューナー付きである。

落ち着いて勉強が出来るだろうか。ゲームをしたい。ビデオが見たい。今ちょうどやっているTVドラマが見たい。

Jjjgame_1 この状態で集中して勉強に取り組めるだろうか。しかしこれが大半の受験勉強中の人の環境なのではないかと思う。

そういう人にすすめたいのがOFFラインモードである。

コンピューターは元来、人間の頭脳を拡張拡大したものである。従って元来はネットに繋がってはいない。

パソコンが生まれたのは1980年代中頃の事でもともとはずっとOFFラインで機能して来たのである。

段々インターネットで繋がったパソコンは、Windows95で爆発的にブレーク。ブロードバンドが導入され、AV機能やTV機能を取り入れて娯楽化して今のONラインがある。

しかしパソコンの基盤は今でもOFFラインにある。新しい価値を創造する場所は今でも、どちらかと言うとむしろOFFラインにある。この点を忘れない事である。

例えばあなたは歴史小説を書いているとする。ONラインで色々な歴史上のデータを調べる。それはそれで良い。しかしデータとか事実をいくら調べてもそれだけでは小説にはならないのである。自分で構想を練り、筋や場面を考える。結局は一語一語、自分の言葉で実際に書いてこそ作品は完成するのである。

これは楽ではない。むしろ生みの苦しみに満ちている。苦しい。逃げたい。

ビデオを見て少し休め。TVで今ドラマをやっているぞ。ゲームをしてリラックスしろ。次々にオンラインの誘惑が来る。それが今私達を取り巻く環境なのである。つまりONラインモードはプラスにもなり、マイナスにもなるもろ刃の剣なのである。

理想的なのは2台のコンピューターを持っている事である。1台はONラインBB常時接続。もう1台はOFFラインのコンピューターである。

もちろん1台のコンピューターでONとOFFを使い分けられればそれに越した事はない。一つ確かな事はONとOFFの区別が付かなくなったら要注意である。

その人はネットに埋没してしまったのである。そこに何が残るか。受身の娯楽と消費である。

2006-03-24

ディジタルメディアの時代

Jjjkusabigatamoji_1 仏陀もイエスもソクラテスも孔子も書いた文字を残さなかった。仏陀の思想は弟子達により結集され経になった。 ソクラテスの思想は弟子のプラトンによって書かれた。イエスに関しては後世に書かれた聖書を見るしかない。論語は弟子達が書いた孔子の言行録である。何故なのだろうか。

ソクラテスは文字というメディアを避けた。彼は町の通りや広場での対話(話言葉)をその活動の中心においている。彼は言っている。文字に頼ると何かが失われると。つまり文字に頼ると、それまでの人間と人間の対話に含まれる何か重要なものが捨象されると。

確かにそうである。しかしその後、文字が広まらなかったか。歴史を見るとその反対である。ソクラテスの時代は限られた人間しか文字は書けなかった。ところがその後文字は広く普及したのである。世界中で義務教育が行われているので殆どの人が文字を読み書く事が当たり前になっている。そして現在の新しいメディアが生まれる。

インターネットである。インターネットは二つの要素から出来ている。一つはHTMLという言語による文書。つまりホームページである。もう一つはメールである。そのどちらもがHTML言語を使っている。画像とか音声も含めてこの新しいメディアをディジタルメディアと呼んでも良いと思う。

つまり現在私達は新しいディジタルメディアの時代を迎えているのである。これが世界中に今瞬く間に広がっているのである。そして今ソクラテスが言ったように次のようにいう人がいる。やはり紙の上に書かれたものでないと駄目だ。インターネットに頼ると何かが失われると。

しかしそれでもディジタルメディアは今度も破竹の勢いで普及する。それは誰にも止められないのである。 歴史は未来を教えている。つまり今はディジタルメディアを使う時代なのである。それをどう生活の中で、仕事の中で使うか。それを使って、どのように、どうやって価値を創造して行くか。それが問題なのである。

2006-03-23

電子書籍の盲点

あるメーカーが電子楽譜を開発したというニュースをテレビで見た。その製品に対する音楽演奏家の意見は、楽譜に色々と書き込みができれば........というものだった。 Jjjebooks_4

これを見てその通りだと思った。実は電子書籍に関しても同じ事が言えるのである。現在日本では四つから五つの電子書籍の形式がある。テキスト、 ドットブック 、XMDF、 PDF等の形式である。

実際にコンピューターとかPDAで電子書籍をダウンロードして上記の書籍閲覧プログラムで開いて読んでみると意外な点が見えてきた。色々な不満があるが、以下の三つの点に集約される。

●プログラムの安定した再現性に問題が多い。
●読書しながら本の上に線を引いたり、メモの書き込みが出来ない。
●電子書籍のレパートリーがあまりにも少ない。

最初の点に関しては特にしおり機能等が安定して機能しない 点である。一つの書籍をダウンロードしても、それは色々なマシーンで読まれる。ノートブック型コンピューターで読む時もあれば、PDAとか携帯で読む。その場合に時々しおり機能が正常に働かない事に気が付いた。

第二の点に関しては読者が実際に本を読む場合を想定して欲しい。 本はただ読むだけのものだろうか。紙の本を読むときに殆どの人は、重要な箇所に下線を引いたり、チョッとした書き込みをしたり、メモッたりしながら読んでいるはずである。英語の本の場合は辞書を引いて日本語の訳を書き込んでいるはずである。しかし現在の色々な電子書籍の形式ではそれが出来ないのである。唯一の例外はPDF形式である。この場合は下線も自由に引けるし、書き込みも出来る。

次に電子書籍のレパートリーである。読みたいと思う本があまりにも少ないのである。
以上の三つの不満を出来るだけ早く直して欲しい。

実はこの上記の不満を一気に解決する方法がある。それは紙の書籍をバラバラにしてキャノンとかPFU社のドキュメントスキャナーでPDF形式にして、それを読むのである。実際にやってみると分るが、これは実に快適である。

それに適しているコンピューターは現在のところSONY社のVAIO type U VGN-U50等の小型コンピューターである。これで縦書きの本でも横書きの本でも自由に読める。携帯出来るので何時でもどこでも電子書籍が読める。それにハードディスクに数十冊の本を持ち歩く事が出来るので大変便利である。