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2006-07-10

稲作の始まり

人間の人生は考えると不思議である。

なぜ今の自分がこのようにして生きているのか。

それをキチンと説明するのは、なぜか大変むずかしい。Mousou5_1 

なにしろ自分がどこに、どうやって生まれたのか。

それさえ自分で決められなかったのである。

気がついてみるとある場所のある状況の中に自分は生まれていたのだ。

ものごころがつくと、色々な体験をする。

そして、ヒョンな事がキッカケになって、大きな変化の渦の中に巻き込まれる。

その渦巻をやっと脱出したかと思うとまた、運命的な事件が起きる。

そのようにしてどんどん方向が決められていく。

あっという間に時間が過ぎる。

数十年間というのは瞬間のように過ぎ去る。

気がついてみると自分はこうして生きているのだ。

*

一つ確かな事がある。

<人間はいつか必死で戦う時が来る。>

まさに正念場である。

その時、人間はすべての力をかけて戦う。

それが一つの節目を作る。

人間の人生は<竹>に似ている。

いつの間にか、節目が一つ二つと積み重なって竹は大きく空に伸びている。

根元を見ると竹の根のようにおびただしい数の人と地下の根でつながっている。

その根は世界に広がっている。

*

では国の運命はどのようにして決まって行くのだろう。

日本はおよそ1万年前までは大陸とつながっていた。

マンモスも大陸から日本に渡ってこられたのはそのお陰である。

1万年前頃に気候が温暖化する。

今まで陸だったところが海になる。

<縄文海進>である。

大陸とつながっていた陸の橋が突然なくなってしまう。

日本列島が生まれたのだ。

その頃から紀元前3世紀頃までの約8000年間を縄文時代という。

稲や金属が未だなかった時代である。

本格的な農耕も未だなかった。

人間は狩猟や漁労や食用植物採集などで生活していたのだ。

その頃の文化は<縄文土器>という土器を通じておしはかる事が出来る。

*

ここに一つの事件が起きた。

中国の春秋時代(BC722年-BC403年) の事である。

揚子江流域に<呉>という国があった。

その隣に<越>という国もあった。

呉と越は宿敵であった。

呉王は大軍を率いて越に攻め込んだ。

しかし越に大敗。

呉王は傷を負って死ぬ。

太子の<夫差(ふさ)>が呉王となる。

夫差は父を殺された恨みを忘れないために毎日、硬い薪の上で寝た。

功臣伍子胥(ご ししょ)の補佐を得て呉を建て直した。

そして越に攻め込み、越を滅亡寸前までに追いつめた。

越王の勾践(こうせん)は夫差に和睦を願い出る。

夫差は伍子胥(ご ししょ)の猛烈な反対を押し切ってこれを受け入れる。

かつての越王勾践は呉王夫差の召し使いとして仕える。

やっとの事で越に戻った勾践はこのときの屈辱を忘れる事が出来なかった。

そして、自分の部屋に苦い肝を吊るして、毎日、それをなめて呉に対する復讐を誓った。

その後、越は国力を蓄え、呉王が当時の国際会議(中原の会盟)に出かけた留守をねらって呉に攻め込んだ。

夫差は慌てて呉へ引き返し、越と戦った。

しかし、これより4年後のBC482年、呉は越に遂に滅ぼされる。

<臥薪嘗胆(がしんしょうたん)>という故事はここから生まれたと言われている。

薪の上に寝て、肝をなめ、決して、復讐を忘れないという意味である。

*

Sanntouhanntou1_1 呉国を滅ぼした越王勾践はBC468年に山東の琅邪に都を移している。

この時に山東の琅邪にいた先住稲作農民は追われて、朝鮮や日本に移動した。

稲作と青銅器を持った人達が朝鮮半島を経由して、日本にたどり着いたのがその100年後と仮定しよう。

そうするとBC368年頃になる。

佐賀県唐津市の<菜畑遺跡>で紀元前4世紀頃の稲作の跡が発見されている。

日本最古の稲作の遺跡である。

こうして稲作と青銅器を中心とした新しい日本の<弥生時代>が始まったのである。

*

国もこのように大きな節目を作りながら

竹のように空に向かって伸びて行くのだ。

地下では巨大な竹の根を世界中にはりめぐらせながら。

*

 

2006-06-26

中国の邪馬台国問題

<日本書紀>は古代日本の様子を伝える、いわゆる正史であるとされている。

しかし<日本書紀>は日本建国の時代を神話の形式で叙述している。 Ryuu1

そして真実はその神話の霧の中に隠されてしまった。

そのような恣意的な歴史書が果たして正史と呼べるのだろうか。

正史とは一体何なのだろう。

正史とはつまるところ、勝者の側だけの見方で、一方的に書かれた歪曲された歴史なのではないか。

とすると正史は、特に眉につばをつけて読むべきものかもしれない。

*

Shibasenn_2 中国には、いわゆる正史と言われている公認の歴史書は24もある。

その最初に来る、第一番目の正史が<史記(しき)>である。

中国・前漢の武帝の時代に司馬遷(しばせん)によって編纂された。

これは130巻からなる史書で、成立はBC91年頃。

*

司馬家は、はるか周(BC1046-BC256)の時代から歴史を司る家であった。

家の伝統を継いだ司馬遷の父、司馬談も前漢の武帝に仕えた太史令であった。

司馬談は病気の為、武帝の<封禅の儀式>に参加できなかったのを恨みながら死んだ。

天文と暦法を司る太史令として封禅の儀式に参加出来なかったのは、ちょうど注目を浴びている売り出し中のサッカーの選手が世界大会の前に病気で倒れるようなものである。

司馬談は生前に歴史書を書き始めていた。

それを書き始めてすぐに死んだのである。

司馬談の遺志をついで<史記>を完成したのが息子の司馬遷なのだ。

*

さて司馬遷は史記を中国の<五帝>から書き始める。

● 1. 五帝本紀 - 五帝
● 2. 夏本紀 -   夏
● 3. 殷本紀 -   殷
● 4. 周本紀 -   周

五帝とは黄帝、顓頊、嚳、堯、舜。

これは中国の神話時代である。

そして司馬遷は中国の歴史の最初の王朝を<夏>から始めているのだ。

*

中国最初の王朝は<夏>であると司馬遷は言う。

問題なのはその考古学的な裏付けである。

次の商王朝(または殷王朝)に関しては考古学の発掘で証拠がハッキリと出土しており問題ない。

<夏王朝>に関しては次のような記述がある。

王朝名は夏后。
BC2070年- BC1600年頃の事。
初代は禹(う)。
実際に王の世襲が始まったのは啓(けい)からである。
末代の桀(けつ)。
世襲で17代、471年間続いた

しかし、夏王朝が実在したという確実な証拠は未だにないのだ。

つまり学問的には夏は<伝説の王朝>なのだ。

日本の邪馬台国がどこにあったかという事は未だに突き止められていない。

夏王朝は、"中国の邪馬台国"なのだ。

*

中国は2000年7月に大要、以下のような発表をしている。

"中国社会科学院考古研究所を中心に、多くの学者が5年にわたる検討を加えた結果、<夏王朝>は実在したという結論に達した。河南(かなん)省・偃師(えんし)市の<二里頭遺跡>は紀元前1600年以前の大型古代都市で、夏王朝の都である。"

*

中国は第10次5ヵ年計画(2001-2005年)を策定。

その中には重点科学技術難関攻略プロジェクトの一つとして、<中華文明の起源をさぐるプロジェクトの予備研究>がスタートした。

2004年9月、中国の考古研究所は、その成果として、大要、次のような事を発表。

● 河南省新密市の<新砦遺跡>は面積約100万平方メートルの夏代早期の大型の都市。
● <新砦遺跡>は夏王朝、啓の時代の都である。。
● 古文書にある<黄台の丘>の近くの<夏啓の居>とは<新砦遺跡>の事である。
● 発見されたものは、三重の堀と宗廟的性格を備えた大型の建築物、骨器を加工する作業場。
● 炭素14年代測定法によると、新砦遺跡が作られた年代はBC2000-BC1900年。
● 防御的機能を備えた<三重の堀>はあったが<城壁>はなかった。

最後の行、"<城壁はなかった>"に注目してほしい。

*

1996年、日中共同長江文明学術調査団は、長江(揚子江)上流域、四川省成都市郊外の<龍馬宝トン古城>遺跡を共同で発掘した。

Ryuumahotonisekimap_1 その結果次のような点が明らかになった。

● その遺跡から長辺60m、短辺40m、高さ6mの階段状の3層構造の土壇が発見された。
● 中から出てきた土器などから約4500年前のものとされた。
● 周囲を囲む城壁がはっきりと残っている。城壁は南北1000メートル、東西600メートル。Ryuuma2

調査にあたった安田喜憲氏(国際日本文化研究センター)は、3層構造の土壇を<祭壇>と見た。

そして黄河文明より早い<長江文明の存在>を裏付ける重要な証拠であるとしたのである。

*

ところが不思議な事が起きた。

早大で開かれた<龍馬宝トン古城>遺跡調査報告会で、中国の成都市文物考古工作隊研究室主任は大要次のように述べたのである。

●こうした土壇は、後漢の時代の墳墓によく見られる。
● 城の中央部にあるため重要と考え、年代をはっきりさせるためトレンチをつくって基盤層まで掘って調べたところ、漢代の土器片が出土した。従って、土壇を漢代の墓であると判断した。

御存知のように中国は共産党の天下。

しかも中国の正史である<史記>には三皇五帝の次の最初の王朝は<夏>なのだ。

Shisenshou1 三国志では諸葛孔明で知られる<蜀>の故地、四川省のような田舎で<城壁のある>、しかも<夏王朝>の始まったとされるBC2070年よりも<430年も前の祭壇の跡>が出てこられては困るのである。

特にやばいのは<龍馬宝トン古城>が黄河ではなく長江の流域にある事。

もしそれが本当なら中華文明は<長江・揚子江流域>に最初に生まれた事になるのだ。

つまり中国で言えば、ちょうど九州王朝にあたるのが、<長江・揚子江流域>である。

そして北の<黄河中流域の中原>が大和朝廷なのだ。

中国共産党によれば、中国文明は最初に<黄河中流域の中原>に生まれていなくてはならないのである。

<黄河文明>の面子がかかっているのだ。

*

わたしはとっさに<権力は銃口から生まれる>という毛沢東の言葉を思い出した。

中国では権力だけではなく

<歴史も銃口から生まれる>。

2006-06-11

スサノオ

日本の古代の神に<スサノオノミコト>という神がいる。

元来は<海>を治める神。Murasakinohana1

しかし、あまり乱暴をするので、高天原から追放された神である。

追放された後、彼は高天原から、いろいろな<木の種>を持って朝鮮の新羅に行く。

しかし彼は<わたしはここに居たくない>と言って、息子のイソタケルと一緒に土の船で出雲に渡ったという。

高天原から持ち来たった<木の種>は朝鮮の地には植えないで、大八洲(おおやしま、日本)に植えたので、日本は青々とした木に覆われた国になったという。

つまりスサノオはある意味で<植樹の神様>なのだ。

*

この話をきいた時、何かピンと来なかった。

何故、何のために、スサノオは木を植えたのか。

当時、<公害>がある訳でもないし、何故彼は植樹に、気を使ったのだろう。

そういう疑問が浮かんだのである。

そしていろいろと調べて見ると、その理由としては2つある事が分った。

1つには船を作る為である。

船を作るにはたくさんの大木が必要になる。

スサノオは<海>を治める神。

だから、まず海を渡る船を作るのに必要な木を植えるところから始めたのだ。

朝鮮から<土の船>で出雲に来たというのは、<朝鮮>には木があまりないという事を神話的に表現したのだろう。

*

Bara2_3 もう1つは、<鉄>である。

スサノオは<鉄>や<鍛冶>と密接な関係にあった。

船で海を渡るという事は、当時、ほとんど鉄を得る事と同じだった時期がある。

<三国志魏志東夷伝>(180-280年の事を書いた中国の歴史書)には朝鮮の辰韓とか弁韓とかについて、次のように書いている。

"国は鉄を出す。

韓、穢、倭、皆

従いてこれを取る。

諸市買うに皆鉄を用う。

また、もって2郡に供給す。"

2-3世紀頃。

これは日本の国が生まれようとする時期だ。

日本は、国家の黎明期、朝鮮に<鉄>を取りに行っていたのだ。

鉄は上にも述べられているように、いろいろな物資を海外から、買ったり売ったりする際の<決済用の通貨(当時の国際通貨)>だったのである。

鉄その物として、武器や農具を作るために使う。

それだけではなく、鉄がないと決済が出来ない。

つまり鉄がないと、貿易活動が出来ないのだ。

そのように見ていくと、当時の様子が段々分ってくる。

だから当時は、<船>と<鉄>は日本にとって切り離せないものだった。

<鉄>を精錬するには、膨大な木が必要になる。

つまり、どちらも<木>が欠かせなかったのである。

*

その背景からスサノオの行動を見ると鮮明なイメージが浮かんでくるではないか。

彼は基本的には日本と朝鮮の間を船で行き来して、鉄を供給した男なのである。

彼が木を植えるのは当然だったのである。

*

鉄が日本に現れた頃は、鉄は貴重品で、滅多に眼にする事が出来なかった。

その頃は鉄は<権力と富>と同じ意味だった。

何故か。

鉄の武器があれば、他の豪族を支配出来る。

つまり他の部族との戦争に勝てるのだ。

征服した部族の人間を労働させる事が可能になる。

この労働力を湿地の灌漑、農地の造成に使う。

鉄で農具を作ると、当然それをもって大規模な開墾や開拓をさせる事が可能になるのだ。

そうして、農地を広げると、当然収穫はアップする。Shakuyaku3_6 

だから豪族達の関心が<鉄の入手>という一点に集中したのは、ごく当然の事である。

その当時はだから、鉄の農具は豪族の持ち物で、朝借りて、夜は返さなくてはならなかった。

鉄で作ったすべての物や道具は、もちろん厳重に豪族の倉庫で管理された。

豪族や国だけが鉄を管理した時代。

鉄が一部の人間によって厳重に独占されていた時代。

それが日本の古代なのである。

大和から東は東国と言われていた。

東国の開発も船と鉄があってはじめて可能になるのだ。

2世紀当時の日本では、<鉄と船を握った人が権力と富を握った>。

鉄こそが国を生み出した源だったのである。

*

日本書紀ではイザナミの3人の子供を挙げている。

太陽を神格化した<天照大神>(これは本当は男性)。

月を神格化した<月夜見尊>(女性)。

そして最後に<スサノオノミコト>(男性)。

しかし、この順序は少しおかしい。

まずスサノオのような乱暴な人間が船と鉄で国を作らなくてはならないのだ。

上に述べたように、2世紀当時の日本では、<鉄と船を握った人が権力と富を握ったのだ>。

神話ではない<現実の権力の誕生>から見ると、まず一番目に来るのが、<スサノオノミコト>。

その後にイデオロギーの中心者、天照大神。

その後に、農事の為の暦(こよみ)を司る、月夜見尊が来るべきなのである。

そして日本古代の歴史の真実を

探って行くと、やはり上に挙げた順序

で物事が運んで行った事が分るのである。

*

だからまずスサノオが船と鉄を得て国を作り上げる。

大和もよく見ると出雲の神、大物主が作ったと日本書紀では述べられている。

<この神酒(みき)は 

わが神酒ならず 

倭(やまと)なす 大物主の 

醸(か)みし神酒 

幾久(いくひさ) 幾久>。

国は後に天孫族に譲られるという。

天孫族とは後の天皇の系列を指している。

イデオロギーの担い手である。

これが日本書紀の<出雲の国譲り>の背景である。

*

 

2006-05-31

アラビアの輝き

現在10億人の規模を誇るイスラム世界。

長い事、イスラム世界というものが、どのような背景から生まれたのか、どうもピンと来なかった。

何故なのだろう。

なぜハッキリとつかめないのだろうか。

あれこれと考えていると一つの事に突き当たった。

それは<地中海全域>を最後に制覇したのが<ローマ>だという点である。Romaempire3

<すべての道はローマに通ず>である。

その広大な領域を地図でみてほしい。

この地域にあった人間、物産、伝統、宗教、学問等はすべて、ローマに一旦流れ込んだのである。

そしてこれが4世紀末に崩壊しはじめるのである。

とつてもなく大きい古代の大帝国が崩れてゆくのだ。

395年にローマは事実上、西ローマと東ローマに分裂。

分裂は統合の反対である。

つまり<統合、集中>求心力が、反対の<分散、分裂>遠心力の方向にぶれて行く。

ローマ世界の凋落は400年頃には、誰の目にもはっきりと見え始めていたのだ。

その凋落にすぐに反応したのが、アルプスを越えた地域、当時ゲルマン民族の住んでいた地域である。

彼らはローマの衰退を察知すると、どんどん南下を始めた。

そして476年に地中海の覇者、ローマの町はゲルマン人により陥落する。

Mekka_and_medina ゲルマン人のローマ世界蹂躙を大体500年としよう。

その70年後にマホメットはメッカで生まれているのだ。

( 地図の赤印がメッカ。

青印がメディナである。)

だからマホメットとゲルマン人はいわば<対>になっているのだ。

真ん中に古代ローマ帝国があり、北にゲルマン人、南にマホメットがあった。

ゲルマン人はローマ没落後の真空を大移動によって埋めた。つまりローマ市を陥落させて西ローマ地域を自分のものにしたのである。

マホメットは一言で言えばローマ没落後のアラビア地域の真空を<イスラム共同体(ウンマ)>で埋めたのである。

<イスラム共同体(ウンマ)>はマホメットの死後、拡大、拡張を続け、地中海の南側、アフリカの旧ローマ地域はすべてイスラムの傘下に入る。

711年、イスラム勢力はジブラルタル海峡を越え、ヨーロッパにも進出。

当時、ゲルマン人のいたイベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)までも占領するのである。

こうして、地中海を中心とした古代ローマ帝国は北のゲルマン人と南のイスラム共同体に2分された。

これが当時起きたイスラム勃興の意味である。

*

しかしこれは事件の政治的な側面である。

精神的、または宗教的な側面を見てみよう。

ローマはもともとは多神教であった。

そこにキリスト教という異質な一神教が東から流入。

キリスト教は激しい迫害にあう。

しかし313年、ローマはついにキリスト教を公認。

そして、392年にはキリスト教がローマの国教になる。

ゲルマン人もキリスト教をローマから受け継ぐ。

つまり一旦キリスト教教会の中にローマの文化がため込まれ、それが北のゲルマン地域に中世の長い時間をかけてゆっくりと継承されて行くのだ。

一方<イスラム共同体(ウンマ)>はキリスト教に対抗するイスラム教を中軸にして、9世紀の初めに、ギリシャの古典文化をアラビア語に翻訳して吸収。Makka

もともとメソポタミアは世界最古の文明発祥地である。

ペルシャの東方古代文化の基盤も、そこにあった。

だから、イスラム世界は高い文化レベルを短期間で達成出来たのである。

もう一つ忘れてはならない点は、アラブ・イスラム地域は西に<ヨーロッパや東ローマ>、東に<中国とかインド>のちょうど中間点にある事である。

アラビアの輝きを支えた<富>は隊商貿易なのだ。

マホメット自身も商人出身である。

つまり物産の東西交易で稼いだのである。

*

地中海を挟んで片やローマ及びキリスト教を継承した野蛮な北のゲルマン地域。

東方古代文化を基盤にした高い文化地域、南のイスラム世界の2つの地域が向かい合う形で対峙するのである。

基本的には文化レベルから言えば圧倒的に南のイスラム圏が高かった。

それはイベリア半島をみると分る。

当時の最高レベルの学問はイスラム傘下の、コルドバやトレドの町でしか学べなかった。

ここには大図書館があり、アリストテレスなどのギリシャの殆どの文献がすでにアラビア語でそろっていた。

英語で代数の事を<algebra>というが、数学だけではなく、アラビア医学、化学、哲学等。

アラビア文化は当時世界最高のレベルだったのである。

ヨーロッパ人はその学問を学びにコルドバとかトレドに子弟を留学させるしかなかったのである。

基本的にイスラム・アラブ地方が先端地域。

ヨーロッパは長い中世時代を通じて、常にアラブ世界に対する劣等感とアラブ世界からの圧迫感に苦しめられる。

なにしろ、ヨーロッパをまとめ上げたあのフランク王国のカール大帝(742-814年)でさえも、ろくに文字が読めなかったのだ。

燦然と輝く繁栄を謳歌するアラビアの文明世界。

意気消沈したヨーロッパの不景気な中世の教会の世界。

これが1096年の第一回十字軍までの西側世界の姿だった。

しかし、ヨーロッパは十字軍を境にして飛躍する。

何故か。

それは8回も繰り返された十字軍から帰ってきた人々によって、アラビアの高い文化がヨーロッパに輸入されるようになってきたからなのだ。

ヨーロッパはこの時期にアラビアの刺激を受けてだんだん目覚め始めるのである。

*

現在、9.11を境に起きた世界の変化を敏感に感知した

中国とかインドが

だんだん世界に目覚め始めたように。

*

 

2006-05-27

文字のはじまり

この地図にある<地中海>を見ると、何かに似ていると感じないだろうか。Kusabigatamoji

その通り。

日本の<瀬戸内海>に似ているのである。

地中海は巨大な内海でChichuukai1 ある。

瀬戸内海も内海である。

<黒海>は、ちょうど日本の<琵琶湖>に当たる。

瀬戸内海はむかしから、<船の幹線路>である。

それと同じく地中海はむかしから、<船のスーパー・ハイウェイ>であった。

そして日本の商売の中心が<難波(大阪)>であったように、地中海地方では、それはシリア地方だったのである。

赤でマークしたところがシリア地方である。Setonaikai1

難波(大阪)は瀬戸内海の<東の突き当り>である。

地中海でいえば、<東の突き当り>はシリア地方。

ここでアフリカ大陸、アラビア地方、アナトリア地方、北方のロシア地方、更にアジア方面への道が交差する。

世界へ通じる道が交差する<十字路>なのだ。

だから、この場所がむかしから通商、貿易で繁栄したのは当然。

フェニキアもこの場所にある。

一方、そのシリア、フェニキア地方のちょうど東の裏側にあるのが、Nebuchadrezzar_blue_lotus_capped_pillars メソポタミア地方である。

青色のマークが付いている場所である。

メソポタミア(Mesopotamia)というのはギリシャ語で<複数の河の間>という意味。ここはチグリス、ユーフラテス川という、2つの川にはさまれた肥沃な沖積平野。

現在のイラクである。

*

<文字>がうまれたのは、2つの川にはさまれたシュメール地方においてである。Mapsumer

この文字誕生の物語を知ったのは<シュメル>という本である

現在分っている最古の文字は<絵文字>である。

ウルク古拙文字という絵文字。

今からザッと5200年前のものである。

しかし、びっくりしたのは、その古拙文字の前の段階である。

ウルク古拙絵文字は、いつかある時にポンと生まれたのではない。

それに至るには、約5000年にもわたる準備段階、試行錯誤の前段階があったのだ。

*

絵文字が出来る前は人は何で、どのようにして、情報を交換してTokenいたのだろう。

それは小さいサイコロの様な粘土小片。

<トークン(token)>といわれている物である。

これは色々な形をしていHitsujitoken_1 る。

羊は十文字の印があるトークン(粘土小片)である。

牝牛は牝牛の形をなぞったトークン。

つまり1つの物に1つの形のトークンが対応しているのだ。

そして、そのトークンを入れる球状の粘土玉が<ブッラ(bullae)>である。Bullae

要するにトークンが文字で、ブッラはそれを入れる入れ物である。

トークンが手紙。

ブッラが封筒である。

*

例えばある2人の人間が取引をしたとする。

売る人をAさん。

買う人をBさんとする。

Aさんは、羊(ひつじ)を5頭、牝牛を3頭、Bさんに売ったとする。

Aさんは羊のトークンと牝牛のトークンを粘土球(ブッラ)の中に入れる。

まだ柔らかい粘土のブッラの中空部分にトークンを入れる。入り口を塞いで乾かせば、密封された粘土球、ブッラになる。

Aさんは羊と牝牛を、運送業の人に頼んで、Bさんのところまで運んでもらう。

その時、ブッラも持たせるのである。

Bさんは羊と牝牛を受け取ると同時に、粘土球ブッラを受け取る。

それを割れば、中に納入物の内容と数量が記録されているトークンがコロコロころがり出てくるというわけなのだ。

もしも、運送の途中で運送業者が羊を1匹つぶして食べてしまったとしよう。

あるいは、途中で泥棒に羊を1匹取られてしまった。

そうすると、ブッラの中に入っていたトークンと実物の数が合わなくなる。

この場合、運送業者はその不足分を賠償しなくてはならない。

つまり、トークンとブッラは、今の言葉で言えば、納入書、請求書、インボイスに当たるのである。

最古のトークンは今からおよそ1万年前のものが発見されている。

トークンの最盛期は5500年前ごろ。

その後、物をかたどった粘土チップ(トークン)の代わりに、未だ柔らかい粘土球(ブッラ)の表面にトークンの形を印鑑のようにして押し付ける形に進化して行く。

粘土が固まると印鑑は固定した絵文字になる。

これが<ウルク古拙絵文字>(表意文字)である。

それが段々と整理され、楔形(くさびがた)文字(表音文字)になって行く。

そこから、フェニキア文字が生まれ、今日のABCのアルファベットにつながっていくのである。

ここで、もう一度、はじめの地中海の地図を見てみよう。

シリア、メソポタミアの東側はいわゆるシルクロードで中国やインドの消費市場とつながっている。

南には古くから栄えた、エジプトという人口密集地域がある。

北方には南ロシア方面へ向かう道と、アナトリア(トルコ)へ向かう道が分岐している。

西側へは船でギリシャ、ローマ、スペインへと海のハイウェイでつながっている。

つまり、シリア、メソポタミア地方は、基本的には物資がそこに一旦集積され、それが各地に供給される<物資の集積・拡散センター>として栄えた地域なのだ。

最初の文字が生まれた理由。

それは宗教上の理由ではなかった。

むしろ<ビジネス上の必要性>が文字を生んだのだ。

小さなトークンと、丸いブッラがそのことを物語っているのである。

*

2006-05-26

デカルト

織田信長(1534-1582)は戦国の世を<天下布武>の旗のもとに、ついに統一した。

信長を見る時、一番おもしろいのは彼のこのエネルギーがどこから湧いてきているのかという点であろう。Odanobunaga1

それはどこから来ているのだろう。

*

<鉄砲>に対する異常な関心。

石山本願寺との戦いで作らせた、燃えない<鉄の船>。

彼は常に進んだ技術に対する鋭いセンスを持っている。

更に、信長は商業を非常に重視した。

商売をしている人に自由に商売が出来るようにした。

楽市・楽座である。

それから不要な場所の関所の撤廃。

彼は全体として経済と流通を促進したのである。

検地を徹底して税収をキチンと確保する事も忘れなかった。

家臣を城下に居住させ城下町を作り、半農民兵を廃して、常備軍を作った。

<人間五十年

下天のうちをくらぶれば

夢幻の如くなり

ひとたび生を享け

滅せぬもののあるべきか>。

これが信長が好きな敦盛の一節で、自分でよくこれを舞った。

延暦寺の焼き討ち。
一向一揆に対する数万人単位の無差別殺戮。
安土城の石垣に地蔵仏や墓石を使ったことから分るように、神仏の存在や霊魂の不滅をあまり信じてはいなかったようである。

つまり、信長は<近代的な合理主義>を身に付けていたのである。

これらを総合すると、信長は長い日本の中世を終わらせ、近世という新しい時代を開いた人物である。

新しい時代を開くには<破壊>が避けられない。

その破壊の部分を担当したのが信長である。

信長は死に、天下統一の旗は秀吉、家康に受け継がれた。

しかし信長の革新的な部分がそのまま受け継がれたかどうか.......。

*

ここでおもしろいのは信長と西洋との接触である。

信長は好奇心が強く、西洋伝来の物を好んだ。

日本で初めて、"天守"閣のある安土城を建てた。

"天主"とはキリスト教でいう神のこと。

天守閣とは、つまり天主、<神>のいる場所という意味である。

つまり彼は自分を神に見立てたという事なのであろう。

天皇が同席する席にビロードのマントや西洋式の帽子を着用して現れた事もある。

晩年は戦場に行くときは、<南蛮鎧(なんばんよろい)>を身に付けた。

イエズス会士、ヴァリニャーノの使用人の黒人に興味を示し、それを譲り受け、彌介(やすけ)と名前をつけて自分の側近にしたりしている。

イエズス会は信長に地球儀、時計、地図などを献上した。

信長はそれらをよく理解したと言われる。

当時、世界が丸いことを知っている日本人はいなかった。

地球儀が献上された時、家臣達はその説明が分らなかった。

しかし信長だけは<理にかなっている>と言って即座に理解した。

苛烈な性格で知られる信長。

しかしルイス・フロイスには普通の人物に見えたようなのだ。

ポルトガルから来たルイス・フロイスにとっては信長はごくあたりまえの、普通の人間だったのである。

つまり信長は日本の当時の状態を<外から、他の基準で見る目>を持っていたのだ。

ある意味で外人、信長だったのだ。

だからそれを破壊できたとも言えるのである。

*

Descartes3 ちょうど同じ頃、ヨーロッパは近世から近代へ脱皮する準備の最中であった。

脱皮のためには、長いヨーロッパの歴史の中で積もり積もってきた習慣とか因習の厚い壁の破壊が必要である。

これを破壊するには、<その外に>確固とした足場がいる。

それにたくさんの人材を結集しなくてはならない。

それを成し遂げたのが、フランスのデカルトである。

デカルト(1596-1650年)は、その彼の著書<方法序説(1637年)>の中で<Cogito ergo sum コギト・エルゴ・スム>(我思う故に我あり)と言った。

この意味はたとえて言えば。

ここに一人の人がいる。

その人は今、赤いチューリップの花を見ていたとする。

花は現象であるから、その花自体(物自体)はつかめないかも知れない。

(物自体を正しくつかむのがいかに難しい事かは、信長の家臣達が、地球儀を見ても、地球が丸い事を理解しなかった事でも分かる。)

しかし自分の認識が間違っているのではないかと疑っているもう一人の自分がいる。

その疑って検証しようとしている自分の存在は確かにそこに存在している。

*

あるいは別の言葉で言うと。

その人はチューリップの花は赤いものだと考える。

しかしその人の中にもう一人の別の自分がいて、こう言っている。

<おまえの見ているチューリップは赤い。しかし、もしかして、世の中は広いので、どこかに黄色いチューリップ、青いチューリップもあるかもしれないぜ。>

そうささやいている、もう一人の自分は確かに自分の中に存在する。

その自分の中の自分を彼は<良識>と呼んでいるのである。Shousatu

しかも、この<良識が普遍的にすべての人間に備わっている>と断言したのである。

これが<コギト・エルゴ・スム>の意味である。

普通の日本語に直すと。

<どんな人間にも生まれつき、初めから平等に備わった良識があるのです。>

なんだ、そんなことか。

そういう人もいるであろう。

要するに、デカルトが言っているのは、人間性の中にある分別の機能の事なのだ。

感情に左右される人間。

それ故に判断を間違える人間。

おまじないとか、占いとか、呪術とか、習慣に縛られる人間。

それが普通の世の中である。

しかし同じその人間が感情を捨て、平静になって、しっかりと、よく、物事をチェックして、確かめ、検証することもする。

そういう力も同時に持っていると言っているのである。

そして彼がそれを実行する為の具体的なやり方が<数学>なのである。

数学は、それ自体の中で検証可能な、明晰な世界である。

これを具体的な道具として使う事。

それをすすめたのだ。

近代科学の基礎を作ったニュートンも、デカルトの書いたものを読んでいた。

人間の中の<悟性>という機能を高く掲げ、人間への信頼を説いたのがデカルトなのだ。

ヨーロッパはこれでエネルギーを充電した。

その後、啓蒙主義、市民革命へとそのエネルギーが爆発することになる。

人間の悟性の旗のもとに結集。

そして数知れない人間の知恵を束ねる事に成功したヨーロッパが議会政治とか、近代科学とか、近代産業社会を生み出したのは偶然ではない。

ここの時点で、ヨーロッパは飛躍して、他の世界から頭一つ抜け出すのである。

その足がかりを作ったのがデカルトなのだ。

*

信長は当時の貴族や寺社が支配する日本の因習とか、習慣とか、物の考えかたから一歩抜け出した。

そして、<天下布武、武家の支配>の旗のもと<日本の中世を破壊し、日本を統一>する事が出来た。

それと同じようにデカルトは当時の、王侯貴族や教会が支配する、ヨーロッパの因習から抜けだした。

そして<普通の人間に備わった良識の旗>を掲げて、数多くの人間を結集する事に成功し、近代への準備を成し遂げた。

どちらの場合も、一旦、枠の外へ飛び出すという事が必要だったのである。

*

2006-05-21

三笠山の月

天の原

ふりさけみれば

春日なる

三笠の山にTousannsai   

出でし月かも

 

(あまのはら

ふりさけみれは

かすがなる

みかさのやまに

いでしつきかも)

 

阿倍仲麻呂 (あべのなかまろ 698-770年)

( 古今和歌集 巻第9.406 )

*

712年、阿倍仲麻呂は留学生として中国、唐に渡る。

きびしい中国の官吏登用試験、科挙にも合格。

唐朝の官吏となった。

当時の皇帝は玄宗(685-762年)である。

Rihaku 仲麻呂は漢詩を作るのが大変うまかった。

唐の詩人、李白や王維たちとも交流。

文人としても名を成した。

35年間の唐滞在後、帰国を願い出て玄宗にききとどけられた。

しかし船出はしたものの暴風に遇い、安南(ベトナム)に漂着。

その後、唐に止まり、58年の海外生活の末に、日本への帰国を果たせぬまま770年に亡くなった。

つまり海外に骨をうずめたのである。

*

歌にある<春日>、<三笠の山>のある場所は果たしてどこなのか。

その点について、ある歴史家は次のように書いている

この歌は中国の明州(浙江省(せっこうしょう))で日本に向けて発つ前の別れの宴席で作られた事になっている。

そして、これは大和にある<春日>、<三笠の山>であるとされている。

しかし良くこの歌を見ると、以下の点が明らかである。

● 阿倍仲麻呂が唐に渡るために、九州を出て中国へ向かう途中の海上にて作られた歌である。
● 場所は壱岐の北端部。ここを過ぎればもう日本は見えなくなる。
● 壱岐の北端部に<天の原>という地名がある。
● <春日>は九州の春日である。
● <三笠山>は九州の春日市の近くの三笠山(宝満山、869メートル)の事である。

明州の宴席でこの歌を披露したのは、そうかも知れない。

しかし、それを聞いた大和出身の人々は<大和の三笠山>をしのぶ歌として、これを誤解した。

または、これを伝え聞いた近畿の人々がこれを<誤伝>した。

つまり誤ってこの歌の成立の背景を記録した。

同感である。

*

だから、この歌の意味は以下のようになる。

わたしは今

Mikasayamakyuushuukasugashi_6 唐に留学するために

故郷の九州を出て

壱岐の<天の原>沖の

海の上を船で航行している

これを過ぎると

もう日本は見えなくなる

そっと後を振り返ってみる。

あの懐かしい故郷の

春日の三笠山に

かかる月を

生きて、またもう一度

見られるであろうか。

*

彼がそのもとで官吏を続けた玄宗皇帝は

息子の妃、楊貴妃を取り上げ、夢中になり、政治を忘れた。

傾国の美女である。

安史の乱(756-763年)の後、

玄宗は軟禁状態の中で死ぬ(762年)。

阿倍仲麻呂が中国で亡くなったのは770年。

つまり彼は混乱の中国と

玄宗皇帝の死を見届けた後、

九州の<春日の三笠の山の月>をみることなく、さびしく亡くなったのである。

2006-05-20

万葉の華

日本には<万葉集>をはじめ数多くの歌集がある。

ではお隣の韓国では、同じような歌集はあるのだろうか。Gifusekitetsuhakusugi1   

実はないのである。

何故なのだろう。

*

643年、新羅は中国の唐と結んだ。

軍事同盟である。

宿敵の高句麗と百済を倒すために連合したのである。

唐の軍隊が新羅に進駐して来る。

それとともに中国の文化は怒涛のように新羅に流れ込んできた。Shiragi2_3

新羅は中国の律令制度を取り入れる。

新羅と唐に挟み撃ちにされた高句麗は滅亡。

その後、百済・日本(倭国)連合軍は白村江(はくそんこう、はくすきのえ)で新羅・唐連合軍に破れる。

百済は滅亡。

三国時代が終わる。

その後、新羅が唐の軍を追い出して朝鮮を統一したのが676年。

しかし朝鮮の独立とは名ばかり。

実際には新羅の中国化がそのまま進行するのである。

たとえば、朝鮮のそれまでの先祖伝来の名前は全て中国式に改められる。

それに、朝鮮最古の書物<三国史記(さんごくしき)>は作られたのが1145年。

それ以前の書物はなにも残っていない。

あとかたもなく消えた古代朝鮮の文物。

朝鮮独自の文字、独自の名前、それまでに出来た書物、歌、歌謡。

それらはすべて捨てられ、破棄された。

焚書坑儒である。

つまり新羅は、中国化され、小中華になってしまったのである。

*

基本的に儒教は中華至上主義。

唯我独尊の世界である。

具体的にそれはどういう事かというと、中国文化だけを尊重し、他の文化を蔑視するという意味なのである。

上記の三国時代、あるいは統一新羅の時代には、多くの歌があったはずなのだ。

それが残っていない。

そのあたりを調べて見ると、実は歌集を編纂したという記録はある。

真成女王(シンスン・ユワン)という新羅の女王が命じて編纂させた民間の歌謡集<三代目(さんだいもく)>である( 9 世紀末)。

しかし、それは儒教文化が浸透するにつれて蔑視され、捨てられ、今は残っていない。

それに本来なら貴重な民族の文化遺産を残したという点で、偉大な女王とたたえられてしかるべき真成女王は韓国では非常に評価が低い。

基本的に儒教は男尊女卑の世界なのである。

日本では卑弥呼、台与(壱与)、神功皇后などに対する評価が高いのと好対照である。

なぜか韓国人は真成女王の業績を讃えようとはしない。

その当時の歌がわずかに25首だけ残っている。

しかしこれらの歌は韓国では郷歌(ヒヤンガ)とよばれ軽視されている。

*Hokkiji1

一方、日本では歌はどのように扱われたのだろう。

日本の歌は万葉集に始まる。

実はこの<万葉集>。

中国の<詩経>(305編の詩歌、約3000年前)を除けば、現存する世界最古の歌集。

世界で一番古い歌集の一つなのである。

作られたのは759年頃。

その中には、5世紀の初めから、約350年間の長歌・短歌。

あわせて、なんと、4500首以上もの歌が収録されているのだ。

Ashi3_3 しかも、それらの歌を詠んだのは天皇や貴族ばかりではない。

名もない防人(さきもり、国境を守った兵士)、東国の庶民、さまざまな身分の人間の詠んだ歌も数多く収められているのである。

これは、日本の文化の水位が1200年前から、いかに高かかったかを如実に示すものである。

万葉集は日本が世界に誇る、文化の一大記念碑なのである。

*

おわりに万葉集から、東歌(あずまうた)一つ。

昼解けば

解けなへ紐の

我が背(せ)なに

相寄るとかも

夜解けやすけ 

(万葉集 14・3483番)

*

(昼間ほどくと、なかなか

ほどけない紐(ひも)が、

夜は夫に会うよろこびで

なぜかすぐにほどけてしまう。

本当にふしぎだわ。)

*

(万葉仮名の実際の文面)

比流等家波

等家奈敝比毛乃

和賀西奈尓

阿比与流等可毛

欲流等家也須家

*

2006-05-16

琵琶湖と安土城

琵琶湖は日本で最大のみずうみ。

しかも世界で3番目に古い湖でもある。

地図をみながらアッと思った。Aduchijyou

<もし、琵琶湖、敦賀(つるが)間に運河があれば、物を陸揚げせずに直接、京都の近くの港町、大津まで裏日本、北日本の特産品を運べる。

きっと多くの人がこの事に気が付き、運河掘削計画を立て、それを実行に移したに違いない>。

そう思った。

すぐにGoogleで<琵琶湖 運河>で検索。

そうすると........。

やはり過去に多くの琵琶湖-敦賀運河計画があったのだ。

*Aduchi3_1

最初の先駆者は平重盛(1138-1179)。いろいろな試みの末、その計画を断念した。その時に彼は次のように書き残したと言われている。

<後世必ず湖水の水を

北海に落とせと言う者あらん。

このこと人力の及ぶことに非ず>。

その後、豊臣秀吉や徳川幕府が幾度も計画を立てた。

Tsuruga しかし、すべて計画倒れに終わった。

河村瑞賢(1697)も敦賀―琵琶湖間の運河を計画。

しかし、実行には移されなかった。

*

Fune1 織田信長は安土(あづち)に城を構えた(1579)。

はずかしながら<安土>がどこにあるのか、いままで、はっきりとは知らなかった。

地図で探し、JR東海道線、米原と京都のちょうど中間あたりにある事を知った。

琵琶湖からほんの少ししか離れていない。

*

あれだけの戦略家だ信長は。

彼は一体なぜ、安土に城を作ったのだろう。

むかしは大量の物資の運送・運搬には、殆ど<船>が使われた。

トラックとか新幹線とか飛行機はまだなかった。

船だけがたよりだったのである。

琵琶湖は日本で最大の湖である。Fune2

しかも当時、<日本海側の国々の特産品>輸送の要になっていたのが、琵琶湖であった。

裏日本、北日本の物資は、今の福井県、若狭湾、敦賀(つるが)あたりに集められ、陸路、琵琶湖に向けて運ばれた。

そこから船で湖を縦断して堅田とか大津の港に着く。

その後、陸揚げされた物資は京都や難波(大阪)へ搬入されたのである。

大津の近くには坂本もあり、比叡山・延暦寺もある。

瀬戸内海が日本の<船の幹線道路ナンバーワン>とする。

そうすると<ナンバー2>は間違いなく、日本海側に通じる<琵琶湖>である。

信長は安土に城を築き、琵琶湖の水上権を抑えようとしたのだ。

この事から、いかに琵琶湖の水運支配が政治的・軍事的・経済的に重要であったかが分るのである。

*

安土城。Aduchijyou3 

7年の歳月をかけて作られた。

大型天守閣を持つ日本で初めての城である。

信長はこの天守閣で寝起きした。

天守閣の高さ、約46メートル。

その姿は五層、七重で最上層は金色。

下層は朱色の八角形。

内部は黒漆塗りである。

一面、豪華絢爛な障壁画で飾られていたとされる。

しかし本能寺の変(1582)で信長は死ぬ。

安土城は完成後、3年で消失。

いまもって<幻の名城>といわれている。

*

 

2006-05-13

竹取物語

五月は竹の子の季節である。

子供の頃、よく孟宗竹の林で<たけのこ>を掘った。

学校から帰ると、竹林に入る。Mousou5

地面をよく見て歩く。

そうするとピンと来るところがある。

少しだけ土が盛り上がっているのである。

落ち葉で覆われている土をそっと注意深く掘る。

そうすると黄色い竹の子の先が見える。

この時のこころのときめき。

それは忘れられない瞬間である。

その場所の印として、

棒切れを立てる。

そして一番いい時期をみて、竹の子を掘る。

すこし頭が見えるくらいの時が一番いい。

それを過ぎると竹の子が固くなりすぎる。

鍬で掘る。

最後、地下茎に繋がっている部分を

鍬を振り上げて、

ヤーっと切断する。

そうすると小さい竹の子が

ころりと地面に姿をあらわすのである。

*

Takenoko1 たけのこを辞書で引いて見ると、

たけのこ 、竹の子、筍(たけのこ)、笋(たかんな)。

とある。

筍と書いてたけのこと読むのをはじめて知った。

<筍>は10日間を意味する。

竹の成長は大変早い。

それで筍が竹の子と読まれたのか....。

竹はその<驚異的な成長力>が神聖なものとみなされた。

だから神霊が宿るものとして盛んに神事に使われたのである。

*

もうそう竹。

孟宗というのは何の事だろう。

これは中国の史話<二十四孝>にある物語に因んで名づけられたと言われている。

呉の国の<孟宗>は、

病気の母の為に

好物のたけのこを求めて、

元来は冬にはとれないと

されていた竹の子を

雪の竹やぶでみつけ

掘り当て母親に与えたところ

元気を取り戻したという。

孝行の物語である。

*

竹の物語で思い出すのは

竹取物語>である。

*

むかしむかしあるところに

竹を切って暮らしていた

Take3 竹取の翁の夫婦がいました。

ある日、竹取の翁が竹林に行って

竹を切ろうとすると

竹の根元が金色に輝いている竹がありました。

なんだろうと思ってそっと切って

中をのぞいて見ました。

すると中に三寸ほどのかわいい

女の子が座っていました。

翁はその子を家に抱いて帰り

自分の子として育てることにしました。

その次の日に翁はいつものように

竹を切っていると竹の中に

輝くばかりの金(きん)が入っているではありませんか。

こうして竹取の翁の夫婦は豊かに暮らしました。

翁がみつけた女の子はどんどん大きくなり、

あっという間に三ヶ月ほどで美しい娘になりました。

この世のものとは思えない美しさ。

そして<なよ竹のかぐや姫>と名づけました。

このうわさを聞いた男達は

みんな、なんとかしてかぐや姫と結ばれたい

と思いかぐや姫の家に通ってきました。

しかしかぐや姫にはその気はありません。

意気消沈した男達は去っていきました。

最後に残ったのは、五人の位の高い男達。

彼らはあきらめきれず、夜昼となく通って来ました。

その名は

石作皇子、

車持皇子、

右大臣阿倍御主人、

大納言大伴御行、

中納言石上麻呂の五人。

翁は五人が諦めないので

かぐや姫に言いました。

"男と女は結婚するものだ。

この五人の中から相手を選び結婚しなさい。"

かぐや姫は仕方なくこう言いました。

"私の言うものを持ってくることができた人

と結婚したいと思います"

石作皇子(いしつくりのみこ)には仏の御石の鉢、

車持皇子(くらもちのみこ)には蓬莱の玉の枝、

右大臣阿倍御主人(あべのみうし)には火鼠の裘、

大納言大伴御行(おおとものみゆき)には龍の首の珠、

中納言石上麻呂(いそのかみまろたり)には燕の子安貝。

しかし、石作皇子はただの普通の鉢を持って来ました。

車持皇子は偽物を作った職人が出て来て

嘘がばれてしまいました。

右大臣阿倍御主人は燃えないとされたものが

燃えて恥をかきました。

大納言大伴御行は龍の珠を取りに行って

嵐にあって逃げて帰ってきました。

中納言石上麻呂は燕の子安貝を

取ろうとして腰を打って亡くなりました。

その事を聞きつけた帝(みかど)は

かぐや姫に会いたいと思いました。

翁はかぐや姫に言いました。

しかしかぐや姫は会いたくないと言いました。

帝はそれでも諦められず

そっとかぐや姫の家の中を覗きました。

その美しい姫の姿にこころを奪われた帝は

歌を姫に送りました。

かぐや姫もその歌に答える歌を帝に送り

諦めてくださいと言いました。

そうしているうちに

ある夜、かぐや姫はさめざめと涙を流して泣いていました。

なんの事が分らない翁は心配して聞きました。

なぜ泣いているのか。

かぐや姫はそれでも泣いているばかり。

その月の15日が近づくにつれて

泣き止まないので翁はもう一度たずねました。

かぐや姫、なぜそんなに悲しいのか。

かぐや姫はやっと翁に答えました。

"わたしは別の世界から来ました。

その世界に15日には帰らねばなりません。"

帝はその事を聞き、たいそう興奮し、絶望しました。

帝はかぐや姫が去っていく事など考えられません。

さっそく、軍勢をかぐや姫の家に送りました。

そして当日。子の刻(2時)頃。

輝く空から天人が降りてきて、

かぐや姫を連れて行こうとしました。

かぐや姫は最後に帝に<不死の薬>を贈りました。

帝はその薬を日本で一番高い山の上で

焼くように命令しました。

その時からあの山は

<不死の山>(富士山)とよばれるようになりました。

*

竹取物語は日本で一番古い物語。

紫式部はその<源氏物語、絵合巻>の中で、<竹取物語>を"物語のいできはじめの親"とよんでいる。

その物語の舞台は今の香川県。

讃岐神社周辺であるという.....。

<古事記上巻>、開化天皇の項に、<讃岐垂根王>の名前がある。その姪の名前が<迦具夜比売命>。

また次のように言う人もいる。

竹取翁(讃岐造)とかぐや姫の住んでいたところは、大和国の奈良県北葛城郡広陵町。

その地の讃岐神社は今も巣山古墳の近くの竹やぶに囲まれて、ひっそりとそこにある。

かぐや姫にプロポーズした五人の貴公子の名前は

壬申の乱(672)で活躍した以下の人物ではないかとされている。

石作皇子(いしつくりのみこ)=丹比嶋真人(たじひしままひと)

車持皇子(くらもちのみこ)=藤原不比等(ふじわらふひと)

右大臣阿倍御主人(あべのみうし)=同名の実在の人物

大納言大伴御行(おおとものみゆき)=このまま同名の実在の人物

中納言石上麻呂足(いそのかみまろたり)=物部連麻呂

日本書紀を編纂した、あの藤原不比等もこの物語に入っている。

という事は............。

まもなく彼の歪曲した日本の歴史は幾つかの証拠に基づいてあばかれるという事.......。

"車持皇子(藤原不比等)は<蓬莱の玉の枝の偽物>を作った職人が出て来て嘘がばれてしまいました。"

 

宮崎市定の世界

"East is East, West is West"

(東は東、西は西)。

キップリングという英国の作家が言った寝ぼけた言葉である。

1907年にノーベル賞までもらっている。Heiba2 

しかし、この人は本当にそんな賞をもらう資格があるのだろうか。

人種差別の匂いがする。

表面はどうであれ、ほとんどの西欧人は多かれ少なかれ、キップリングと同じである。

以外に、西欧には今もって、遅れた思想の持ち主が多い。

ノーベル賞をもらった人はたくさんいる。

しかし本当にそれに価する人は少ない。

*

同じく、歴史家は世の中にたくさんいる。

しかし本当の歴史家は少ない。

では本当の歴史家とはなんだろう。

Gekijyou3 それは世界ははじめから一つの世界であるという事を知っている歴史家である。

人間は一人では生きられない。

当然、そこに交流があり、一貫した世界の歴史がはじめからあったのだ。

しかしわたし達が見る歴史は一貫して書かれているだろうか。

残念ながら、そうではない。

西洋と東洋の歴史は今だに別々のものである。

今まで、打って一丸となった、世界史など見た事がない。

いやそれに似たようなものはある。

しかしよく見るとやはり継ぎはぎだらけのキップリング流の世界史である。

"East is East, West is West"なのである。

特に西欧の学者にこの偽物の世界史が多い。

*

そんな中で一人の日本人が本当の世界史に挑戦している。

宮崎市定である。

彼はこのように書いている。

<実は歴史学なるものは本来、

世界史たるべきものである。>

(宮崎市定、世界史序説)。

これを初めて読んだ時、非常に驚いた。

*

そして宮崎市定の世界で知ったのは

大要次のような事である。

<都市国家>という一番古い国家形態がある。

それを導きの糸にしてみると、今まで東西に別々に隔絶していた世界の歴史を一つの歴史として見る事ができる。

多くの都市国家が一つの大帝国へと統一、統合されていく時代を<古代>とよぶ。

上昇、拡大期である。

*

一番最初に文明に目覚めたのは西アジア、中近東地方である。

シュメール人はいまから、6000年前に文明に突入している。

それに続いた、メソポタミア(今のイラク)、シリア、エジプト。

Perusepolis この地域の都市国家群の統一を成し遂げ、前代未聞の世界帝国を築いたのが現在のイラン。

ペルシャ帝国・アケメネス王朝(BC550)である。

*

次にヨーロッパ地域。

アテネ、スパルタ等、ギリシャの都市国家やイタリアのローマである。

ヨーロッパで、この統合を成し遂げたのが、ローマ帝国。

西アジア、ペルシャのダリウス大王に遅れること300年。

*

次に中国。

中国の都市国家群を統一したのは秦の始皇帝である。

これも西アジアに遅れること300年。

*

<多くの都市国家>の統合という筋書きから西アジアとヨーロッパと中国をみると、三つの地域は同じレールを走って古代の大帝国を築いている。

先進地域は西アジア地域である。

それに約300年遅れて西側のヨーロッパにローマ帝国が生まれ、東の中国には秦漢帝国が生まれているのである。

*

もう一つ非常に興味深いのは上記の三つの地域で<カネ>がどちらから、どちらの方向へ流れているかである。

ローマ帝国が軍事力で奪い取った膨大な金銀は結局、先進地域のHadrianus2 西アジアへ流れる。

西アジア地域の進んだ大農地経営の生産物に競争で破れ、イタリアの小農は没落する。

ローマは西アジア地域の先進的な物資を購入して、カネを使い果たしてしまうのである。

*

よく見るとカネだけではない。

当時の西アジアの先進性が良く見える現象はまだある。

もともとローマは都市国家である。

元老院を中心とした共和制を政治の仕組みとして持っていた。

それがカルタゴを滅ぼし、エジプトを占領し、シリア、アナトリアも吸収してしまうと、今度は政治様式も西アジアの様式が輸入される。

結局、シーザーは、最後はペルシャ風の専制帝王に変身するのである。

政治や経済だけではない。

宗教でもそうなのである。

文化の古さ、社会の発展の程度を比べるとローマは新興成金みたいなものである。

西アジアがはるかに上。

西アジアの諸々の宗教がドッとローマ市内になだれ込んでくる。

その中の一つがキリスト教だったのである。

*

一方秦漢帝国も西アジア地域への架け橋、<シルクロード>を通じてカネを使い果たしている。

ここでも文明の流れは、西アジアから、東の中国へと、カネとは逆の方向に流れたのである。

それはシルクロードを渡ってきた仏教の流れを見るとはっきりと分る。

先進地域、西アジアはカネをローマからも中国からも吸収して繁栄した。

これがアラビアの富の正体である。

*

そして古代の大帝国の崩壊。

下降期である。

まずペルシャ帝国は紀元前330年、マケドニアのアレキサンダー大王の侵略によって滅亡する。

なぜアレキサンダーはペルシャを侵略したのだろう。

アラビアの巨大な富が目当てだったのだ。

そしてアラビアの高い文化も。

彼はそれに吸い寄せられたのである。

その事が今では、良く分るではないか。

野蛮人、アレキサンダーの一撃。

これを契機にして、西アジア地域の統合への動きが終わり、<分裂>が始まった。

ヨーロッパと中国の分裂に先立つ事、およそ700年。

ローマと中国を見ると、大帝国の崩壊は、ほぼ同じ経過をたどっている。

どちらも、同じ時期に北方の異民族の侵入を受けているのである。

410年、西ゴート族のアラリック王、ローマ市に侵入。

476年、ローマ帝国は滅ぶ。

304年、五胡十六国とよばれる北方騎馬民族が中国の北部に侵入、占拠する。

そして、ヨーロッパも中国も、ほとんど同じ時期に分裂と抗争の<中世の時代>に移行するのである。

*

中世を特徴づけるのは<分裂>である。

これは<古代>が基本的に都市国家の統合、統一であった事を考えると、その反対の方向。

つまり中世は分散と分裂の時代なのである。

バラバラになって行く。

国は滅び、自給自足の荘園だけが広がっていく。

統合と分裂。それが古代と中世の違い。

上昇期の古代がおおらかなのは当然である。

それに対して中世は下降期で宗教の時代でもある。

中世が深刻な感じがするのはそのせいなのである。

*

もう一つの宮崎市定の世界でおもしろいのは<景気>という現象を重視している点である。

ローマも秦漢も西アジアの先進地域に対して<輸入超過>でどちらも<カネ>を失う。

つまりローマも秦漢も<カネがなくなる>のである。

今の言葉で言えば<不景気>である。

宮崎市定は<不景気こそ中世なのだ>とも言っている。

今は<不景気の時代>。

統合というよりも、今までの枠組みが壊れていく時代、どちらかというと分裂の時代である。

わたし達はいま、ある意味で、新しい<中世>の中にいるのかも知れない。

 

 

2006-05-11

茅(ちがや)の輪

夏が近づいて来ると決まって思い出す。

神社の鳥居の前に飾られた緑の大きなな茅(ちがや)の輪。

遠くからでも見える。Chigaya3_1

6月30日である。

風呂を浴びて、ゆかたを着て、

夕日の落ちる頃に下駄をはいて行った。

チガヤの輪をくぐる<輪抜け様>である。

茅(かや)で作られた大きな輪をくぐり抜け身を清める。

夏のにおいのするみどりの茅(ちがや)の輪。

だんだん暗くなって行く夜空に流れ星を見た。

*

なぜ6月30日なのだろう。

昔は、1年を2つにわけ6月30日を<みそか>としていた。

この日に、前半分の厄落としと、

重ねて、後の半分の無病息災を祈願するのである。

*

昔は中国でも日本でも<2倍年暦>が使われていた。

1年を2つに割って、それぞれを1年として数えていた。

つまり今の1年は、むかしは2年だったのである。

*

司馬遷の<史記>によれば、黄帝・堯・舜の年齢が100歳を越えていることから、夏王朝の頃の中国は2倍年暦であったことが分る。

Gishiwajinndenn2 魏志倭人伝においても、次のような文章が見える。

"その人寿考、あるいは百年、

あるいは八、九十年。"

これは日本人の年齢。

いまから1700年前の日本なので、これはありえない。

やはり、50歳、40歳、45歳の意味である。

この数字から当時、歳を二倍年暦で数えていた事が分るのである。

*

茅(ちがや)の輪で思い出すのは<蘇民将来>の伝説である。

"むかし昔、素戔嗚尊

(すさのおのみこと)が

南へ向かう旅をしている時に、

一夜の宿を求めて

蘇民将来(そみんしょうらい)と

巨旦将来(こたんしょうらい)

の兄弟に声をかけた。

すると、裕福な身なりをしている

巨旦将来は宿を拒み、

粗末な身なりの蘇民将来

の方は快くChigaya5尊(みこと)を

招き入れ、粟がらで

座ぶとんを作り、

粟飯を作って接待した。

何年かして再び尊が

やってきて、<もし世の中に

疫病が流行った時には、

茅(ちがや)で輪を作り、

それを腰につければ

難を逃れることができる>

と教えて姿を消した。

その後、世の中に

疫病が流行りだし、

巨旦将来の一家は

疫病によって死んでしまったが、

腰に茅の輪をつけていた

蘇民将来の一家は

生き延びたという。"

*

まだ仏教が伝わらない昔、人々はこのような物語の中にやるべき事を教える倫理をそっとしのばせた。

茅(ちがや)。

何かなつかしい言葉である。

2006-05-06

日本を奪取した百済王

チャングムという韓国のテレビ・ドラマを見ている。

見ていて思う。

陰謀が多い。

そしてその陰謀が大変、激しく、徹底している。Hannsanngun_1 

日本人が何となく引かれるのは、淡白な日本のドラマにはないこのしつこさと深さではないか。

ドラマの振幅が大きいのである。

*

その得意な陰謀を持って日本に来た韓国人がいた。

そして彼は日本をのっとる事に殆ど成功した。

そう言うとビックリされる人もいるだろう。

しかしこれは本当の事である。

日本の歴史の中で異常な、ただならぬ陰謀の匂いのする時期がある。

それは日本が白村江(はくすきえ)の戦いに朝鮮半島に出兵した663年からおよそ100年間の時期である。

当時、古代朝鮮は争乱の時。

高句麗、百済、新羅、加羅(伽耶、任那)。

これらの4つの国が、お互いにあい争う戦国時代であった。

中国では350年にも及ぶ分裂期を終えて、漢民族の超大国、唐が統一を果たしていた。

唐の触手は朝鮮に及ぶ。

当時<百済(くだら、ペクチェ)>と同盟関係にあった日本は白村江(はくすきえ)で唐・新羅連合軍に大敗。百済国は滅亡。

Nakatominokamatari この時に日本から一人の重要人物が消えていた。

中臣鎌足である。

別名、藤原鎌足。

覚えておいでであろう。

よく勉強して覚えた<大化の改新>(645年)。

中大兄皇子(のちの天智天皇)と組んで蘇我入鹿を暗殺した自称、善玉の<中臣鎌足>である。

この人が突然姿を消してしまう。

そして白村江(はくすきえ)の後、また忽然と姿をあらわすのである。

*

ある歴史家は大要、次のように推理している

"藤原の祖、中臣鎌足は人質として631年、日本に来た百済の皇子・豊璋である。

その後、亡国の難民となって日本に落ち延びて来た多くの百済・渡来人の代表。

大化の改新、乙巳の変 (いっしのへん)の真実の姿は中臣鎌足の陰謀。

日本の要(かなめ)、蘇我入鹿、別名<聖徳太子>の暗殺である。

彼は当時の日本の大黒柱、蘇我本宗家を倒したのである。

どんな手を使っても権力を握ろうとする、その過激さの中に朝鮮からの避難民の本当の姿を垣間見る事ができる。

*

その後、中臣鎌足の遺志は彼の子、藤原不比等に引き継がれていく。

そして彼こそ日本の正史<日本書紀>の作者なのである。

また彼は<律令整備>の責任者でもあった。

律令の整備というのは日本の土地改革の事である。

それは明治維新に似ている。

明治維新では徳川家は全部の土地を一旦、天皇に奉還。

各々の藩主達には新たに設けられた国の役職等が与えられ、懐柔された。

それと同じ事が藤原不比等と持統天皇(女性天皇)の手で、当時の豪族に対して行われたのである。

藤原不比等は<律令と正史>という道具を使い幾多の豪族達を追い落とした。

特に徹底してやった事。

それは蘇我氏を抹殺し、歴史上の大悪人に仕立て上げた事である。

そして蘇我氏の滅亡で生じた空白を自分の家系で固め、その後千年にも及ぶ藤原家の礎を築いた。

このようにして、朝鮮旧百済王家は、まんまと日本の国を実質的に奪い取ったのである。

*

これを象徴するのが、万葉集や百人一首にある次の歌である。

春過ぎて  Amanokaguyama2

夏来たるらし

白栲(たえ)の

衣ほしたり

天の香具山

(持統天皇、彼女は天智天皇の娘)

これは<天の香具山>が<出雲王朝、蘇我家、豊(トヨ、台与)、聖徳太子>豊政権を表している。

その<天の香具山>の、<天女トヨの白い羽衣>を奪い<九州王朝、天智天皇、持統天皇、百済派、藤原家>が新政権を打ち立てるという陰謀を、羽衣伝説にかけて歌ったものと考えられる。

*

その後も藤原氏の暴虐は続く。

藤原不比等の死後、その遺志を継いだのは藤原四兄弟である。

その前に現れた政敵が、左大臣で天皇方の政界のリーダー、<長屋王>(ながやのおおきみ)である。

彼等は迅速に動く。

謀反の疑いをかけ、濡れ衣をかぶせて長屋王を急襲。

長屋王自害。

729年、藤原氏は一族の光明子を聖武天皇の皇后に立て、ここに藤原四子独裁政権(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)が完成する。

つまり日本はここでも百済王家に牛耳られたのである。

*

その後、天然痘で全員急死した藤原四兄弟の遺志を継いだのは藤原仲麻呂である。

又の名を恵美押勝(えみのおしかつ)。

押して勝つ。

すごい名前である。

彼は自分の傀儡、淳仁天皇を即位させる。

そして太政大臣になる。

皇族以外の者でこの職についたのは日本の歴史上、彼が最初である。

そして政治の実権を独占。

例えば貨幣の鋳造の権利を天皇から委譲させた。

朝廷から出される命令には天皇御璽が押されていたが、これも恵美押勝印で代用できるようにしてしまった。

つまり彼は本当の意味の日本の独裁者、事実上の日本の皇帝になったのである。

日本をのっとるという藤原鎌足の遺志を遂に彼は達成した。

*

藤原氏はその後どうなったのか。

764年、恵美押勝の軍事クーデター計画が発覚。

彼は斬殺される。

その後、藤原氏は、天皇をつぶして自分が皇帝になるという<ごり押し方式>ををあらためる。

そうして天皇に寄生して他の豪族を支配するやり方に変えるのである。"

*

"この世をば

わが世とぞ思ふ 

望月の

欠けたることも

なしと思へば"

の歌を詠んだ藤原道長の繁栄。Ujibyoudouinn_1 

1053年、京都宇治の平等院(びょうどういん)を建てた、その子、藤原頼通。

藤原氏千年の栄華はその後も、明治維新に至るまで、近衛、三条、九条と名前は変えて続いて行くのである。

*

631年に日本に亡命した百済の皇子・豊璋、中臣鎌足以来、えんえんと続く藤原氏の日本奪取。

つまりそれは < xx % > 成功したのである。

2006-05-01

ボスポラス海峡

1983年日本で平均視聴率52%を誇ったNHK連続テレビ小説。

おしん。

これは後で世界中59ヶ国でも放映された。

中でもイランではおしんが大ヒット。 Delphi3

大変な人気であったという。

地図をみると分るとおり、イランは大半が高原山岳乾燥地帯である。

平野部はごくわずか。

カスピ海とペルシア湾に面した部分に少し平野があるだけである。

Iranmap_2 しかしカスピ海沿岸地方は亜熱帯気候で雨も多く米が作られている。

これらの村に入ると水田が広がり、何だか日本にいるみたいな錯覚にとらわれると言う。

*

ヨーロッパを旅行すると多くのタクシーの運転手がイラン人である事に気がつく。

きいてみると昔はイランでは数学の教授だったりする。

1979年のホメイニー師によるシーア派イスラム・イラン革命当時の亡命者である。

彫りの深い端正な顔。

そんな時、歴史上はじめて世界帝国(多民族国家)を作ったペルシャの偉大さを心からたたえる。

数千年来の洗練されたイラン文化を一生懸命にほめる。

そうすると満面の笑顔でうれしそうである。

*

<イラン>は<アーリア人の国>という意味である。

西洋ではペルシャとよばれてきた。

実は、西洋人もイラン人もインド・ヨーロッパ語族(印欧語族)とよばれる同じ言語グループに属している。

ではその印欧語族の祖先の故郷はどこだろう。

いまから7000年前に麦作農耕が始められたアナトリア高原(今のトルコ)がその源郷であるという説が有望。

しかし問題は大変微妙なのである。

ヨーロッパ人はこれを声高に言いたくないのである。

トルコはいつもヨーロッパからは半人前として扱われているからである。

だから中央アジアとか、南ロシアだとか言ってとお茶を濁すのである。

農耕の起源についても中国の長江流域では、麦作よりはるか以前の13000年前くらいから稲作が始まっていた。

でもこれも認めたくない。

それが正直なところなのである。

*

Busporus3 何故トルコは半人前に扱われるのだろう。

なぜ、ボスポラス海峡が2つの世界を分ける境界線になっているのか。

実はこの境界線にはペルシャ戦争以来続いてきた2500年にわたるヨーロッパの伝統が横たわっているのである。

その最初の事件は今からおよそ2500年前。

3回にわたるギリシャとペルシャの戦争である。

その戦争の原因はなんだったのだろう。

新興の貿易国アテネはエーゲ海の制海権を握った。

そこに古代中東地域をまとめあげた歴史上はじめての世界帝国(多民族国家)であるアケメネス朝ペルシアが割り込んできた。

つまりエーゲ海と地中海の、制海権と商権をめぐって両雄が争ったのである。

この2つの勢力はBC499年のイオニア(今のトルコ)におけるギリシャ都市のペルシャに対する反乱事件を契機にぶつかったのである。

これから、えんえんと20年にもわたるギリシャ連合軍とペルシャの戦争が続く。

最後の第3次戦争の前にアテネはデルフィに使者を送り神の預言をDelphi 求めた。

その答えは<木の砦>。

ギリシャ軍のテミストクレスはそれを船による海戦と理解した。

つまりアテネの町の放棄と海上での決戦である。

BC480年アテネのアクロポリス陥落。

テミストクレスはギリシア海軍をまとめ、サラミス沖でペルシア海軍を撃破。

またギリシャは陸上でのプラタイアイの戦いにも大勝利。

ペルシア軍はテーバイに逃げて籠城。

ヘロドトスによれば257000人のペルシア・テーバイ兵がギリシャ兵に殺された。

問題なのはギリシャの勝利の意味である。

この戦い以後、<民主主義の西欧>、<東の専制主義のアジア>という定式が生まれるのである。

それから<西は東に常に勝つ>というイデオロギーも。

それが今回も同じとは限らないのに.........。

 

アメリカに歴史はあるのか

考えて見ると<時間>ほど不思議なものはない。

わたし達の<時間>は実際のところ、<今>しかないのである。

次の瞬間、<今>はもう過ぎ去った<過去>になっているし、

<未来>は未だ来ていない時間なのだから。

*

過ぎ去った過去はもう戻っては来ないし、それを変える事は出来ない。

だから過去をうんぬんしても生産的ではない。

今と未来が重要なのだ。

それはその通りである。

では過去とか歴史はわたし達にとって、一体どういう意味があるのだろうか。

*

それを考えるには布を織っている姿を想像すれば良い。

猛烈な速さで縦糸と横糸が交差して布が織られていく。

その横糸の一本が今である。

出来た布が過去である。

未来は次の横糸によって作られる。

そして布のデザインは自分の未来の<イメージ>なのである。

わたし達の現実の姿はすでに織りあがっている部分の布。

つまり<過去>である。

そう考えると過去の大切さが分ってくる。

織りあがった布は美しいか。

満足しているか、それともデザインを変えるのか。

それを恥じるのか。

それとも誇りに思うのか。

布のデザイン、イメージと比較して、織り間違えたところがどこかをよく点検。それが何故そうなったか、どうすれば良いのかを考える。もっと良いデザインに修正したいのか。

しかし世界は広い。

世界にはいろいろな人、いろいろな国がある。

それに応じていろいろな過去に対する見方。

つまり歴史に対する見方がある。

*

ある歴史家は言っている。

<アメリカには歴史がない>と。

本当にそうだろうか。

<三つ子の魂百まで>と言うように、アメリカ建国時の状況を見ればそれがもっと良く分るのではないか。

アメリカは基本的に現在に至るまで、世界中から集まってきた移民によって出来上がっている国である。

1620年イギリスの清教徒102人はアメリカのプリマスに上陸した。

ピルグリムファーザーズといわれるアメリカの建国の始祖である。

彼等は母国イギリスで、国教会からの分離を求めて弾圧された清教徒。

その難を逃れるため、信仰の自由を求めてメイフラワー号という船に乗ってアメリカにやって来た。

これがアメリカの建国神話である。

当時、実際にはアメリカにはもう既に多くの植民地があった。

しかしで理想的な社会を作る明確な意図(ビジョン)と意思を持っていたのがピルグリムファーザーズだったのである。

<自由>がアメリカ建国神話の核をなしているのはその為である。

つまりこの人たちの原点は<過去と母国の伝統とヨーロッパ>からの自由の獲得だったのである。

過去にはなかった新世界を作り上げる。

新しい未来。それがすべてだったのである。

しかし植民と開拓の新生活はきびしいものであった。

神に祈り、最大の効率が要求された。

あとに残してきた英国の過去や経験は役に立たなかったのである。

何故だろう。

それは次々に押し寄せる世界各地からの移民の群れを吸収して国を維持し、発展させるのは前代未聞の仕事だったからである。

この状況から生まれたのが<American way of life>である。

アメリカ憲法に対してYESと言った人たちがその憲法の範囲内でまとまる。

<過去>は一切問わない。

更にそれから出来たのがアメリカの実践哲学である。

<行動>がすべて。

そして<力>と<結果>がすべてである。

しかしその人の<過去>は問わなかった。

いろいろな国から、さまざまな過去を背負ってやってきた移民を束ねていくには、これしか方法はなかった。

こうしてアメリカ憲法を中心とした人工的な民族の坩堝、アメリカが生まれたのである。

すべてのエネルギーは未来の一点に集中され、過去は古臭い桎梏と考えられたのである。

そこで役に立つものは<新しいアイデアと、行動と、力と、結果>だけであった。

過去は意識的に無視された。

なぜだろう。

それはこころの奥で伝統と文化の長い過去を誇るヨーロッパに反発したからである。

そこではヨーロッパにはかなわないからである。

なにしろそこから逃れてきたのだ。

アメリカは自分の新しさ、未来への傾斜に対して、それを誇りに思った。

だから<自由>がその誇り高いアメリカのシンボルなのである。

しかし、それと同時に長い伝統と文化を持つヨーロッパに対して言い表すことができないほどの嫉妬と劣等感を持っていたのである。

"結局自分は何をやってもヨーロッパの亜流に過ぎないのかも.....。"

アメリカ憲法にしてもフランスのコピーかも.......。

そういうコンプレックスがアメリカ人の無意識の底流に脈々と流れていたのである。

それを少しだけ乗り越える事ができたのが第二次世界大戦後にイギリスから世界の覇権の禅譲を受けた時である。

その時アメリカは考えた。

やっと大英帝国を追い抜いたぞ。

自分達は1776年に政治的にはイギリスから独立した。

しかし何故かいつもどこかで自分は肩身の狭い思いをしてきた。

やっとこれで彼等を完全に追い落とす事が出来た。

今や俺さまが世界の覇者だ。

俺様の天下だ。

170年間も頑張ったんだ。当然さ。

でも自分は一体、どうやってこの覇権を勝ち取る事が出来たのだろう。

そうか。

俺の持っていた<力と武器と戦争>であの長い歴史のあるヨーロッパを救ったからだ。

それにあの生意気な国にも2発お見舞いしたし。

という事は、つまり成功で一番大事なのはやはり<力と武器と戦争>なんだ。

こうしてアメリカの成功体験の中心に<力と武器と戦争>が居座ってしまったのである。

*

さて質問。

果たして<アメリカに歴史はない>のか、あるのか。

 

2006-04-30

ヒスイと玉琮(ぎょくそう)

子供の頃、夏の川原で石をさがして遊んだ。

丸い石、変わった色の石。

特に良く探したのはこどもたちの間では、当時、おんじゃくとよばれMagatama_3 ていた自然滑石(かっせき)である。

これを使うと大きな黒い石の上に白色でいろいろな落書きが出来るのである。

慣れてくると遠くからでも、おんじゃくか否かがわかるようになる。うすい青みがかった白い石だからである。

それから美しい色の一風変わった石。

それは家に持って帰って机の引き出しなどに入れて宝もののように大事にしたりして遊んだものである。

l

日本では玉といえば翡翠(ひすい)である。

勾玉(まがたま)はヒスイを磨いて作られる。

魏志倭人伝には倭国、邪馬台国の卑弥呼の宗女・台与が献上品として<青大勾玉(せいだいこうしゅ)>2個を魏に贈ったと書かれている。

ヒスイのまがたまである。

また古事記には次のような話が記されている。

  "糸魚川市付近を治めていた豪族の娘、
    奴奈川姫のもとに出雲の大国主命が
  来て求婚した。"

奴奈川(ぬなかわ)姫に由来する姫川。

長野県と新潟県にまたがって流れる。

この川の流域は昔からヒスイの産地である。

日本の縄文時代の遺跡から出てきた勾玉は、ほとんど全部、姫川の流域のヒスイで作られているらしい。

万葉集の歌。 

沼名河の 底なる玉 求めて得し

玉かも、拾ひて 得し 玉かも
  
惜(あたら)しき 君が

老ゆらく 惜しも"


(奴奈川の底にある玉は、実に美しい玉です。その玉をさがして、やHimegawahisuikyou_2 っとの思いで手に入れたり、または偶然拾って手に入れたりすると、心から大切に思い大事にします。その玉のように大切な、若いあなたが年をとっていかれるのは、本当に心痛む思いです。)

この恋は悲劇に終わったようである。

奴奈川姫は大国主命と一緒に行ったが、ある時、海路一人で帰ってきて姫川の近くの池に入水して果てたと伝えられている。Gyokusou7_2 

古代中国にも玉の文化がある。

この写真は2900年位前の西周時代の玉琮(ぎょくそう)である。

四川省、成都市出土。

はじめて玉琮(ぎょくそう)を見た時、ちょっとびっくりした。

美しい。

しかし権力の匂いがする。

Seidouki その時思った。

この玉琮(ぎょくそう)を金属で作ったのが

鼎(かなえ)などの青銅器だと。

〔鼎の軽重を問う〕のことわざ通り

どちらも当時の権力者の富や力の誇示に使われたのである。

同じ玉でも日本と中国は違う。

いのちをかたどった勾玉は姫のものである。

一方中国の玉琮(ぎょくそう)は男に使われたのである。

2006-04-29

白い牛に奪われたエウロペ

むかしむかし、ギリシャの女神レアは

子供を飲み込んでしまうクロノスを恐れ、

クレタ島のイデ山 の洞窟に隠れました。Cretetou_1

そこで一人の子供を生みました。

生まれた子供はゼウスと名づけられ、

クレタ島、アイガイオン山の洞窟で

やぎの乳を飲んすくすくと育ちました。

ゼウスは立派な青年に成長して

父クロノスのお腹のなかから

兄や姉たちを助け出しました。

*

ある時フェニキアの王女、

エウロペが花を摘んでいました。

ゼウスはその美しい姿をみて

白い牛になり、

エウロペを自分の背中に乗せ

ボスポラス海峡を渡り、

ヨーロッパを通り、

クレタ島にたどり着きました。

白い牛はゼウスの姿に戻り

エウロペはクレタ島の最初の妃になり

彼等の子がクレタ王となって繁栄しました。

その後ゼウスは再び白い雄牛に姿を変え、

星空へとのぼり、

牡牛座(おうしざ Taurus)になりました。

*Cretetauruscyprus_2

以上がギリシャ神話に伝えられているエウロペ姫とゼウスの物語。

<歴史の父>ヘロドトスをはじめ、古代ギリシャ人は、

ギリシャから北の地域をエウロペ(ヨーロッパ)と呼んだ。Coin_of_eur

美しい文明の花を白い牛に乗せてボスポラス海峡を渡る。

その牛が実はクレタ島。

つまりこの神話は文明が東(中東)から西(ヨーロッパ)に向かって流れたという物語なのである。Europe

その主な舞台はフェニキア(今のシリア地方)とかタウルス山脈のあるアナトリア(今のトルコ)である。

Oushi クレタ島はこれらの古代中東文明とギリシャを結ぶ中継点だったのだ。(クレタ文明はBC2000年頃、つまり今から4000年前に栄える。)

つまりクレタ島はギリシャの先生なのである。

ギリシャがそれに学び、ギリシャに先行した文明。

わたし達はときどき、ギリシャの文明が突然パッと生まれたように錯覚する事がある。

しかしギリシャはむしろ中東古代文明から見ると、もともと西端の野蛮な辺境地帯だったのである。

その証拠はいろいろあるが、昔アテネの町は若い男女をクレタのミノタウルスという牛の犠牲にささげていたというような伝説がなんとなく、ギリシャの遠い思い出を伝えている。

ギリシャのスパルタはその<法律>をクレタから学んだ事はギリシャでは広く知られていた。

ギリシャの彫像とか神殿はエジプトとかペルシャからの影響なしにはありえない。

ホメロスの叙事詩はイオニア方言でできている。Ionia

イオニアというのは現在のトルコ西岸である。

ここにはギリシャからの移住者がエフェソスとかミレトスなど、沢山の植民都市を作ったところである。

ギリシャの本当にすぐれたものはイオニアで生まれていることが多い。

たとえばアトムの存在を説いたデモクリトス(BC460年頃)。ピラミッドの高さを測ったタレス(BC624年頃)などである。

それからギリシャが受け継いだのはオイロペ姫だけではなく、アルファベットのもとになったフェニキア文字、フェニキアが持っていた<地中海>の制海権と商権でもあった。

つまり実はギリシャの<光は東方から Lux ex oriente>来たのである。

2006-04-28

津軽三味線

いつも不思議に思っていた事がある。

日本の演歌の歌詞によく出てくる<津軽(つがる)>という言葉である。

<北国、涙、雨、別れ、女、酒、海、カモメ>も同じである。Sannaimaruyama2

何故これらの言葉が演歌に繰り返し語られるのか。

それが良く分らなかった。

しかし日本の歴史を見ていくうちにだんだんと分ってきたような気がする。

演歌は基本的には<うらみ節>なのである。

だから演歌を怨歌と書く事もある。

日本にヤマト朝廷という九州王朝と出雲王朝の合併政権が生まれたのが250年頃と言われている。

そのシンボルが前方後円墳であった。

当時の中心は奈良のアスカである。

そこから急速に東に広まっていく。

東国がこの政権を受け入れたのである。

しかしそれは北は会津あたりまで。 Hashihaka3

それから北は頑強にヤマトに抵抗して行く。

なぜか。

会津地方から北の部分は縄文人の残された<最後の領域>だったからである。

この東北北部地方が最後まで縄文文化を維持する地方だったのである。

それから約450年もの間、東北北部地方は独立を維持した。

定住固定された農民による稲作農業を基盤に、そこから、効率的に利益を吸い上げる律令体制。

このヤマト体制に対して断固<NO>と言った蝦夷の国がそこにあった。

並立した関係が終わり、ヤマトがまつろわぬ蝦夷(えみし)に25800人の兵を送ったのが789年。

しかし蝦夷はこれに対して1500人のゲリラ戦士を繰り出して衣川以北の独立を守りきった。

ヤマトの惨敗である。

それから10年にも及ぶ戦争。Aterui

疲弊した蝦夷。

酋長アテルイ(阿弓流為)は遂に、征夷大将軍、坂上田村麻呂のもとに投降した。

命は取らないという約束で京都に上るが裏切られ803年に殺された。

つまり東北北部はこれ以後、長い怨みの歴史を背負わされたのである。

Chuusonji この伝統は続く。

源頼朝の最大の敵は<北方の王者>といわれた平泉の奥州藤原氏であった。

奥州藤原氏3代は、100年にわたり栄華を誇っていた。

当時の平泉は平安京に次ぐ日本第二の都市である。

1189年奥州藤原氏は義経をかくまった罪に問われ、頼朝に攻められ滅亡。

怨みを抱いた東北。

その流れは続く。Datamasamune_1 

ローマに使節団を派遣して独自の道を歩もうとした奥州の覇者、伊達政宗は徳川家康にその夢をつぶされる。

怨みと情念と挫折の悲しみが演歌のふるさとなのだ。

津軽三味線の音もそう言えば郷愁に満ちている。

5000年前には縄文の偉大な誇り高き都であった津軽。

そういう風に考えてみると石川啄木とか宮沢賢治とかの文人を生んだ東北の誇り、やさしさ、強さというものの姿が見えてくる。

l

"とにかくに 渋民村は恋しかり

おもいでの山 おもいでの川"

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2006-04-27

聖徳太子は誰か

<以和為貴 和を以(も)って貴(とうと)しとなし.......>。

これは覚えておいでであろうか。

聖徳太子の作ったとされる十七条の憲法の第一条のはじめの部分である。

それから次の一節。

<日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや>。

そう。Syotokutaishizo2

これは聖徳太子が当時、中国の隋という国の皇帝、煬帝に当てた国書の一節である。

この人は日本古代において、おそらく日本の<こころ>を代表する人物であったに違いないのである。

その尊敬をこめて聖徳太子の千円札が作られたのである。1000ennsatsu_1

しかし日本の歴史上において、聖徳太子ほど謎の多い人は少ない。

日本書紀の中で彼に関する情報が歪められ、その真実は大きく捻じ曲げられて書かれているからである。

Shoutokutaishi ある日本の歴史家は大要次のように推理している。

     "聖徳太子の本当の名前は<蘇我入鹿>である。"

蘇我入鹿はいわゆる大化の改新(乙巳の変)で中大兄皇子(後の天智天皇)に殺された。

日本書紀は基本的に蘇我氏を追い落として、藤原一族の千年にも及ぶ繁栄を築いた藤原不比等の作品である。

だから不比等は一貫して蘇我氏を大悪人として書いている。

しかし一方では当時、豊浦大臣とよばれ親しまれ、非常に大きな役割を果たした蘇我入鹿の業績だけは聖徳太子という仮名のもとに記さざるをえなかった。

蘇我氏と物部氏は仏教の受容の賛否で争う。

その争いの末に蘇我氏が物部氏を滅ぼしたと日本書紀には書かれてある。

これも藤原不比等による作り事、嘘、フィクションである。

両者はむしろ、出雲王朝派として一体であった。両者は一貫して、助け合い、協力して大和朝廷をきりもりしてきたのである。

藤原不比等の父、中臣鎌足は実は朝鮮、百済の王族の末裔である。

日本の古代史を貫く、本当の対立軸は次の2つである。

●出雲王朝系、新羅派---天武天皇(大海人皇子、,蘇我入鹿の子)。蘇我入鹿、物部氏。

●九州王朝系,百済派----天智天皇(蘇我入鹿を殺した中大兄皇子)。大友皇子、中臣鎌足、持統天皇、藤原不比等。

藤原不比等さんの書いた、モヤモヤして不明瞭な歴史などもうコリゴリである。

もうそろそろ本当の真実が語られても良いのではないだろうか。

日本古代史の全貌が一日でも早く明らかになり、誰にでもよく分るような言葉で語られる日が来ることを祈っている。

 

2006-04-26

バイキング魂

イギリスと日本はどちらも島国である。

どちらの国もユーラシア大陸に海峡を接する島である。

イギリス本土と大陸フランスの間にはドーバー海峡がある。Great_britain その距離は34Km。人が泳いで渡れる距離である。実際に泳いで対岸に渡った人には遊泳達成の証明書が発行される。

一方、日本の対馬と韓国の間の距離はおよそ50Km。そして、九州本土と韓国の間は132Kmである。これではチョッと泳いでは渡れない。

そしてイギリスと日本を決定的に分けるのが、まさにこの海峡の距離なのである。

つまり大陸側から島を攻撃する場合の安易度である。または反対に島の防衛度と言ってもいい。Genkou

イギリスの場合はいつも外からの攻撃に直接さらされた。上陸され、奪略や占領を逃れるすべはなかったのである。従って常に大陸からの直接の影響を逃れる事は出来なかった。人も金も武器も兵も物もどんどん入ってきたのである。

Great_britain2 これが日本の場合には、海がいつも外からの攻撃に対して鉄壁の防衛線になった。それを如実に示しているのが1274年と1281年の2度の元寇。モンゴルの襲来である。

<元寇>に似た<ノルマンのイギリス征服>という大事件がある。

モンゴルは草原を駆ける騎馬の民族。

一方、ノルマンはバイキングから身を起こした北フランスの豪族である。

いってみればバイキングの伝統を引く北フランスの親分である。

どちらも獲物をねらう狼である。

まずそれに至るまでのイギリスの歴史をザッと見てみよう。

イギリスに、はじめて大陸から移り住んだのはケルト人であった。その後、平和なケルト人の島に侵入したのがローマ帝国。 シーザーはBC55年にイギリスに渡る。 

それからイギリスはおよそ400年以上もの長い間、ローマ帝国の植民地として統治されるのである。

当時のイギリスは3つの領域に分かれていた。

ブリテン本島、西側のウェイルズ地方、北のスコットランドである。

これはちょうど日本で言うと、ブリテン本島にあたるのが本州のヤマト。ウェイルズは九州地方、スコットランドが東国のようなものであった。

Hadrianswall_1 北方、スコットランドのケルト人は頑強に抵抗し、ローマを苦しめた。ローマはそれに対して、118Kmにも及ぶ城壁を設け、ケルト人侵入に備えた。これが<ハドリアヌスの長城>である。

410年にローマがブリテン島から撤退した後、北海、デンマークあたりに住んでいたデーン人が繰り返しブリテン島に来寇して、住民はその略奪に苦しんだ。

つまり恒常的なバイキングによる略奪。

バイキングの武器はその優れた<船>にあった。Normans

軽くて早いバイキング船が水平線に現れるのをブリテン島の住民はいつも恐れていたのである。

北方のバイキングの影響下に長い間、さらされたイギリス。

そして最後に決定的な瞬間がやって来る。

1066年、フランス北部、ノルマン地方に領土を持つバイキングの王、ギョームは5000隻の船でドーバー海峡をわたりブリテン島を征服するのである。

これが<ノルマンの征服>と言われる大事件である。

ギョームはウィリアム1世と名乗る。

英国ノルマン王朝の始祖である。

その後、イギリスは18世紀に鉄、石炭、蒸気機関、鉄道、工場制機械工業を導入して産業革命を先導した。

そして日の沈まないという大英帝国を築き上げたのである。今でもその名残を<コモンウェルス>に見る事ができる。

さて、現在の英国のエリザベス女王は今年、80才の誕生日を祝った。Commonwealth_of_nations

世界の3分の1の国。53の国。

17億人の民を束ねる<コモンウェルス>(Commonwealth of Nations)(旧大英帝国植民地連合)の女王である。

女王の荘厳な、きびしい、美しい顔。

その中に危険をくぐりぬけて来た先駆者。

パイオニアとして戦ってきたバイキング魂をみる思いがする。

 

2006-04-25

里山の古墳

日本は古墳の多い国である。なぜこんなに沢山の古墳が現在もそのまま残っているのか。

これは奇跡である。

Enpun1_1 日本の里山を歩くと、谷あいの山や丘の上に点々と丸い古墳が見える。もう木に覆われてはいる。

しかしその木が少し盛り上がっているので、何となくそこに古墳があるのが分るのである。

まだ中学生の頃、週末に近くの山を歩いていた。いつもは木が鬱蒼と茂っている山の木が切り倒され、丸裸になっている場所があった。

急いでその頂上まで上って見た。

丸く盛り上がった小山である。暖かい日差しの小山の上。そこからは村を一望する事が出来た。

菜の花畑の広がる、農村の風景が眼下に見える。斜面に仰向けに寝た。目の前には青い空と白い雲が広がっている。うららかな春の日差しに誘われてつい、ウトウトとしてしまった。

何時間たっただろうか。何かに顔がこすれて目が覚めた。

ふと横をみる。

そうしたらそこにチョッと黒ずんだものがみえる。

飛び起きてよくみると、それは土器のふちの部分である。木の枝で土器の周辺を掘った。

すると完全な灰色の土器が現れたではないか。

その時にこの小山が古墳である事を知ったのである。

さて、その土器をどうするか。

考えた末、上から見えない程度に深く埋めなおした。

Sueki1 月曜日、学校の図書館で調べて見た。この形の古墳は一般に<円墳>といわれている。

まわりには土器とか埴輪が埋められている事が多い。

灰色の土器は<須恵器(すえき)>とよばれている事を知った。

古墳時代(250-780年頃)の土器には赤みがかった<土師器(はじき)>とこの灰色の須恵器の2種類がある。

須恵器の特徴は1000度以上の高温の密閉釜で焼成された土器で灰色が特徴。朝鮮経由の技術らしい。

土師器は日本列島固有の技術で作られた土器。600-700度で密閉されていない地面の穴で焼かれるために酸素が供給され、赤みのある土器になるのである。

休み時間、担当の先生のところに行って古墳と土器の事を話そうかとも思った。しかし何となく、もやもやした気持ち。

結局、そのままにして帰途についた。

問題の小山が、学校帰りの道を歩いていると見える。

点々と丸い山のような古墳が丘の上に続いている。3つ位数える事が出来た。

それ以来、学校の行きと帰りには古墳を見上げる。周囲に埋められている土器がわたしの目には見えていた。

何故、日本にこれだけ多くの古墳が残されているのだろうか。

他の国では盗掘にあうか、農地に造成されてしまうか、人の手が入って破壊されてしまう事が多い。つまりほとんどが消えてなくなっているのである。

それは<祟り>とか<呪い>というものと関係があるのかも知れない。

日本ではあらゆるものに<いのち>があるとする汎神論、アニミズムが深く根付いている。

それに先祖崇拝の思想が重層的にのっかっているのである。

つまり2重に盗掘を阻止する力がはたらいてきた。

日本全土に広がる、里山の古墳。

いまから1200-1700年前の祖先の眠っている所。

それは日本の誇り。

大切な遺産である。

2006-04-22

エトルリアの香り

アメリカは本来はだれのものだろう。初めにそこにいた人々はだれだろう。

答えは, インディアンとよばれている人たちである。Tomba_degli_scudi_tarquiniatoskana

同じ事は日本にも当てはまる。

日本の原住民はヤマト朝廷から<蝦夷(えみし)>とか<土蜘蛛(つちぐも)>とかの名前で呼ばれていた縄文人、東国の人々や熊襲、隼人などである。

彼等がもともと、そこで生活していた人々なのである。しかし最後はヤマトに取り込まれ、その中に吸収されてしまう。

フランス、ドイツ、イギリスにおいても同じである。このあたりは昔はケルト人のすみかであった。

この地図で青のCelts_1部分は今から3500年から3000年前。桃色の部分は2400年前のケルト人の拡大領域を表している。

つまりケルト人ははじめ仏独国境近くを発祥地として、周囲に広がっていったのである。

ケルト人地帯はローマ人からは<ガリア>といわれた所である。

BC58年、ローマのシーザーはこの地帯に進軍。それから8年間かけてガリア地域を征服した。その記録はシーザー自身が書いた<ガリア戦記>という本に詳細に記されている。

ではローマという国はどのようにして生まれたのだろう。

その背景には同じような物語があるのだろうか。

つまりローマの発展の裏で死滅していった原住民のような人々はいたのだろうか。

いた。

Etruria エトルリアと呼ばれている都市国家群である。12の都市がゆるい形で連合した国である。

地図の土色の部分がその発祥地。現在はトスカーナといわれている。

トスカーナというのはエトルリア人の土地という意味である。

ルネサンス時代の花、フロレンスの町もトスカーナにある。 Cathedralfrolence_1

このトスカーナ地方を基盤にして、エトルリアは南へ北へと拡大発展したのである。

いまからざっと2700年前頃から約400年間繁栄した国である。

地図をみるとアルノ川とティベル川に囲まれた肥沃な平野である。平野の北にアルノ川が流れるフロレンスがある。南端にティベル川のローマがある。

Tarquinia_4 その中間にタルクニア Tarquiniaという町 がある。そのあたりがエトルリアの中心地帯であったと考えられている。

いってみればローマは初めの時期はエトルリア国家群の南端に位置する田舎町だったのである。

その田舎町のローマが北へ進軍して、エトルリアを征服。そして2278年前にイタリア全土を制圧してしまうのである。

これはちょうど、日本の発祥に似ている。初めに九州北端の国が漢倭奴国王という金印を中国の後漢からもらった頃、日本は30以上の小国家群であった。その大部分は今の北九州にあった。

これらの小国家群を束ねたのが倭国王、卑弥呼である。

それに対して、瀬戸内海の東端に位置していたのがヤマトである。当時は鉄も絹もあまりない田舎である。

しかし最後は東のヤマトが西の<倭国>を吸収して<日本>が生まれるのである。

Chikakofun_cerveteri 九州には多くの古墳が残されている。その中でもいわゆる装飾古墳と呼ばれている壁画の大部分が九州にあるのはうなずける。

同じようにローマに征服されたエトルリアには多くの地下装飾古墳群が残っている。。

エトルリアはフェニキアとかギリシャと接触して非常に高い文化を持ち、大いに繁栄していた。

大げさに言えば、鉱業、製鉄、貴金属加工、陶器製造、土木建築、造船、農業などのあらゆる部門で当時、最高レベルの技術を持っていたとも言われている。

その基礎の上にローマはあの有名な水道とか、ポンペイの城壁などを築く事ができたのである。

Tomba_degli_scudi_tarquinia2 つまりローマはエトルリアを通して、フェニキアやギリシャ等の高度な文化を受け継いだのである。

それがエトルリアの歴史上の役目だったのである。

しかしローマはこの先住民族を完全に殲滅し、地上からその姿形を消し去ろうとあらゆる努力をした。

ローマはエトルリアの歴史とか言語とか、その他一切合切、全部を意識的に、執拗に葬り去ったのである。辛くも残されたのが地下古墳だけ。

これはちょうどから、日本建国前後の歴史が日本書紀、古事記の中では神話化され、当時の真実がほとんど、神話の闇の中に埋もれてしまったのと同じである。

今、トスカーナを訪れるヨーロッパの人は何か郷愁のようなものを感じるらしい。

美しい自然と景観。そしてすばらしいワイン。

シエナとかピザ、フロレンスの町並み。

そこに失われたエトルリアの香りを感じるのかも知れない。

 

2006-04-21

フリーメイソン

モーツアルト、ゲーテ、ナポレオン、吉田茂、ワシントン、ルーズベルト、トルーマン、フォード。

これらの著名な人たちに共通するものは?Tennpurukishidannmonnshou

答えは、みんな、秘密結社、フリーメイソンのメンバー。

他には日本に馴染みのあるマッカーサー、ペリー。
更にマーク・トウェイン。ヴォルテール、イギリスのチャーチル。ウォルト・ディズニー。
中国の蒋介石、周恩来もそのメンバーであった。

驚きである。

一体、フリーメイソン(正確には、団体名はフリーメイソンリー、個人をフリーメイソンというが、ここでは、その両者をフリーメイソンとする)とはどんな団体なのであろうか。

フリーメイソンの起源についてはいろいろな説がある。しかしその中でも以下に述べるようなものが妥当とされている。

1096年、第一回十字軍の後に結成されたテンプル騎士団。はじめは聖地エルサレムへの巡礼者の保護を目的として作られたものだった。

その後、王族や貴族の財産を預かる銀行のような役割をも引き受け、金融業や貿易で莫大な富と権力をもつに至った。最盛期のフランスでは数十箇所の拠点をもつ巨大組織となっていた。

その最大の特徴はテンプル騎士団の紋章にある2人の馬上の人。

これは騎士団のメンバーが神に祈る修道士(僧侶)であると同時に武器を持つ戦士(騎士)である事を表しているのである。

注目されるのはその国際的な銀行業務である。

つまり彼等は祈り、戦い、金を儲けたのである。

日本で言うと比叡山の僧侶が刀を持ち、敵と刃を交えて戦い、しかも同時に金貸しをしていたようなものである。

フランス王、フィリップはこの騎士団の財産に目をつけ、1307年10月13日突如フランス全土のすべてのテンプル騎士団員を一斉逮捕。策略を用いてテンプル騎士団全体を壊滅させその全財産を没収した。数千人の騎士が拷問の末に殺されたと言われている。

この日がちょうど金曜日だったので<13の金曜日>が不吉を表すようになったといわれている。

その中のわずかな騎士が、スコットランドに逃げ延びてフリーメイソンという秘密組織の基になった。

同じ頃イギリスではゴチック建築が盛んで、それに携わっていた石工職人達が自分達の権利を守る為にギルドで秘密の暗号を使い始め、閉鎖的な団体としておよそ400年位続いた。これがフリーメイソンの母体になったとされる。

石工職人団体としてはゴチック建築の衰微とともに終わり、その後、友愛団体に変貌。<フリー>は自由。石工職人以外の人に開かれたという意味。<メイソン>とは親方という意味である。

メンバーは男性に限る。国籍を問わず、理性や自由博愛の思想を掲げているとされている。しかし、その内容については詳しくは分っていない。基本的に非公開の秘密団体だからである。

フリーメイソン会員同士は相互に助け合う。つまり世界中に目に見えない相互補助ネットワークがある。つまりかれらは一種のコスモポリタンなのである。

ディドロ、ダランベール等、フランス革命を実行したリーダーの多くがフリーメイソンであったため、体制側からは、革命や変革を目指す団体であると白い目で見られることもあった。

Jiyuunomegami アメリカの象徴、ニューヨーク市に立っている<自由の女神像>はフランスから独立100周年記念にアメリカに贈られたものだとされている。

この計画を立て、女神を作った彫刻家はフランスのフリーメイソン・メンバーである。

かつては自由の女神像の台座にフリーメイソンのシンボル、星と三日月のマークが描かれていた。これは今では削られている。

像の下にある石版には<定規、コンパス、G>を組み合わせたシンボルが今でも見られる。これもフリーメイソンのしるし。

Dorusatsu2 もう一つの有名なフリーメイソンのシンボルは1ドル札の裏にある <ピラミッドと目>である。ドル札を持っている人は一度確かめてみられるとよいと思う。

現在、議会、裁判所、警察などあらゆる分野にいるフリーメイソン会員数はアメリカだけでも、推定およそ400万人。世界中では600万人。世界各地にロッジ(集会所)がある。

さあ、ここで、最大限の想像力をめぐらせてみよう。

想像してみよう。

どこかで自分達の<使命、ミッション>を堅く誓ったフリーメイソンメンバーが現在、エンジン全開で毎日、秘密裏に活動している。

それは誰だろう。

彼等は3つのものを持っているだろう。

神への祈り、専門スキル、または武器、それに金である。

おそらく、表の顔はそれを見たらアッと驚くのではないだろうか。

では、その人たちの合言葉は?

推定、<秘密の合言葉>。

そう。

世界政府である。